K’sストーリー第一章 誰が好き?(2)
 そんな日曜日から何日か過ぎたある日の放課後、俺は仁と一緒に帰っていた。
「それにしても、もう明日で三学期が終わっちゃうんだよなあ…」
 歩きながら、仁がそんなことを言った。俺はその言葉に返答する。
「そうなんだよなあ。ついこの間高校に入ったと思ったらもう一年終わり…早いよなあ」
 そして俺はこう続けた。
「そうだ、明日の放課後さ、みんなでカラオケ行こうってクラスの連中に呼びかけてみな
いか?一年間同じクラスで、ご苦労様でしたーって感じで」
「カラオケか…好きだなおまえも。ま、俺も嫌いじゃないし、全然OKだけどな」
「よーし、それじゃ明日、言ってみようぜ」
「ところで健吾」
 仁が聞いてきた。
「おまえ、この一年で恋愛に関する何らかの発展はあったか?」
「何の話だいきなり。そうだなあ…特にねーな」
「あれぇ?おまえ、この間のホワイトデーにたくさんお返ししてたじゃないかよ。まあ、
俺ほどじゃないけどな」
「義理でもらったヤツに、義理で返しただけだよ。おまえが思うほど、俺はもてないよ」
「ふーん、そうかあ?」
「何だよ?どういう意味だよそれは?それより、おまえはどうなんだよ」
「俺?俺はまあ、たくさんの女の子と知り合えて仲よくなれて、なかなかに有意義な一年
だったぜ。同じクラスは元より、高校の先輩、違う学校の娘…。やっぱり高校生ともなる
と、範囲が広がるな」
「広げ過ぎなんだよおまえは」
「けどなあ…」
 急に仁の声のトーンが変わった。
「本命の喜久さんを落とせなかったのは痛いよなあ。おまえと違って、チョップしてもら
えないし。もしかして、去年の今ごろと同じような関係のままだったりする?」
 実は喜久は、怒ったり照れたりするとチョップでビシビシ叩いてくるんだ。ただし、ご
く親しい人にしかしないから、それをされてない仁はまだまだだと自分で思っているよう
だ。で、とりあえず親友だし、俺は仁を慰めるつもりでこう言ってやった。
「まあ、いくらかは進展してると思うよ。2月14日生まれのおまえに、バレンタインの
チョコだけじゃなくて、ちゃんと誕生日プレゼントもくれたじゃないか。喜久ってちょっ
とお金にうるさいとこあるから、それほど気にしてなかったら、二つ一緒にまとめるぜ」
「…本当にそう思うか?」
「ああ、思う」
「…サンキュ、今の言葉で元気出てきたよ。よーし、それじゃ今日も、喜久さんにアタッ
クしに“鬼賀屋”にゴーだ!」
 仁がそう言って拳を空に突き上げた時、何か音楽が聞こえた。聞いたことのある曲だ。
そうか、仁の携帯の着信音だ。
「はいはい仁でーす。こんちゃー。…うん、そうね。えっ?はいはいはいはい。場所は?
…ふんふん、OKだよ。それじゃ、すぐ行くから待っててね。バーイ」
 そして仁は電話を切って、言った。
「女の子に呼び出されちゃったよ。だから、予定変更」
「おいおい仁、喜久はどうするんだよ?」
「今日はパス。また明日以降に、だな」
「あのな…。おまえ、そんないいかげんな気持ちで喜久にアタックしてるのか?そんな気
持ちでいるんだったら、喜久の幼なじみとして、彼女と付き合うの許さないからな!」
「おまえにそんなこと言う権限ないだろ。それに、これから会いに行く女の子はただの友
達。喜久さんは恋人にしたい女の子だから全然別格なの。じゃあそういうことでここでバ
イバイな健吾。また明日、学校でな」
「また明日って…おい、仁!」
 俺の言葉も聞かず、仁は行ってしまった。
「…あいつ、本気で喜久のこと落とすつもりあるのかな…」
 俺はそうつぶやいてみた。
「まっ、いいか。さて、本屋にでも寄ってくかな」
 そして俺は近くにあった本屋に入った。毎週買ってる漫画雑誌(片瀬先生も連載をして
いる)とカラオケ用の音楽情報誌を買ったのだが、その後、適当な雑誌を立ち読みするこ
とにした。表紙にもてる男のどーたらこーたらと書かれていた本が目に入ったので、さっ
きの仁の言葉が気になっていた俺はそれを手に取ってパラパラとめくってみた。
「俺ってもてる…?ふっ、んなわきゃねえよな…」
 俺はそうつぶやいて苦笑してみた。その時、後ろからこんな声がした。
「東センパイ」
 振り返ってみると、それは香菜ちゃんだった。
「センパイ、こんにちは」
「やあ香菜ちゃん、こんにちは。どうしたの今日は?」
「高校の教科書を買いに来たんです。買ってお店の中を見たらセンパイがいて…センパイ
は何をしてたんですか?」
「本買った後に立ち読みしてたんだけど…そろそろ帰ろうかなって思ってたんだ」
「そうですか。わたしも教科書買いましたし、もう帰るつもりだったんです」
「それじゃあ、一緒に帰らないか?俺のアパートと香菜ちゃんの家、同じ敷地内にあるん
だし…」
「えっ、一緒に…ですか?」
「ああ。もちろん、香菜ちゃんが嫌でなければ、だけど」
「そんな、嫌だなんて思いませんよ。せっかくセンパイが誘ってくれたのに…」
「そんな大げさな…。それじゃとにかく、行こうか」
「は、はい」
 そして俺と香菜ちゃんは本屋を後にした。

 俺と香菜ちゃんが二人で歩いていると、彼女がこんなことを聞いてきた。
「さっきセンパイが読んでた雑誌、女の人にもてるコツとか書いてありましたよね?」
「あれ、わかっちゃってたの?あはははは…」
 そんな乾いた笑いをした俺に、さらに香菜ちゃんが聞いてくる。
「…センパイ、これ以上女の人にもてたいんですか?」
「い、いや、俺の場合は、それほど熱烈に希望してるわけじゃないよ。それよりも『これ
以上』って、俺はそんなにもてないよ?」
「でも、バレンタインデーにたくさんのチョコレートもらって、ホワイトデーにたくさん
お返ししたって間さんが…」
「仁のヤツ、なんで香菜ちゃんにそういうこと話すかな…。あのね、あいつにも言ったけ
ど、全部義理チョコ。とりあえず知り合いだからくれたって女の子ばかりだよ」
「だけど、ちゃんと全員にお返ししたんですよね?」
「そりゃ、義理とは言えもらったわけだから。だからどの女の子にも、お返しとして最低
ラインの物を…あっ、ごめん。君にあげたのもその最低ラインの物だったんだ…」
「いえ、わたしは、ちゃんとお返しをいただけたことが嬉しかったです」
「そう?そう言ってもらえるとほっとするよ」
 その言葉の後、俺も香菜ちゃんも黙ってしまった。沈黙に耐えられなくなった俺は、違
う話題を振ることにした。
「そういえば今日は高校の教科書買いに来たって言ってたけど、その他の高校入学の準備
はできてるの?」
「はい、もうほとんど。制服も用意しましたし」
「そうなんだ。俺たちが行ってた中学から木本高校に行くと、女の子の場合、制服が違う
から気分も一新できていいよね。男なんて両方ガクランだから、変わるのはボタンぐらい
だし。木本高校の女子の制服って結構かわいいセーラー服だから、嬉しいんじゃない?」
「その服が似合う人ならそう思うかもしれませんけど、わたしは、ちょっと…」
「俺はそうは思わないけどな。香菜ちゃん、絶対あの制服似合うよ」
「そ、そんな…わたしなんて、太っててスタイルもよくないですし…」
「だからそんなことないって。…って、君のサイズ知らないのにそんなこと言えないか」
「わたしのサイズなんて、見た目通りですよ?…それでも知りたいなら、ちょっと、耳を
貸してください…」
「えっ?えーっと…」
 俺は困ってしまった。ここで香菜ちゃんのスリーサイズを聞いてもいいものだろうか?
でも、内容はともかく、内気な香菜ちゃんが決意をしているので、それを無下にするわけ
にもいかないと思い、俺は香菜ちゃんの方に耳を向けた。すると香菜ちゃんが俺に耳打ち
をして、彼女のスリーサイズを教えてくれた。なおその際、この娘の顔がものすごーく赤
くなっていた。
「うーん…ごめん、聞いといて何だけど、よくわからない。だけど、今度高校生になるん
だし、これからどんどん変わってくよ」
「そ、そうでしょうか?でも、変わっていくって、どう変わるかはわかりませんよね…」
「そこは、君の努力次第で、いい方向に変われるんじゃないかな。応援するから、がんば
りなよ」
「あ、ありがとうございます」
 香菜ちゃんがいくらかのやる気を出したようなので、よかったと俺は思った。それでこ
の話題はここまでにして、また別の話をすることにした。
「ところで香菜ちゃん、高校入ったら何か部活やるの?」
 俺は彼女にそんなことをたずねてみた。
「えっ?ええっと、やっぱり中学と同じで漫画部に入ろうと思ってるんですけど…」
「ふーん、そうなんだ。ま、好きなことやるのはいいことだよね」
「よかった、東センパイがそう言ってくれて。中学の時にも、センパイ、そんなこと言っ
てくれましたよね?」
「えっ?そ、そうだったっけ?」
「あー、ひどい、忘れてましたね?あの時、女の子の部員がわたししかいなくなっちゃっ
て、やっぱり女の子が漫画なんて…って思ったんです。それでやめちゃおうかとも思った
んですけど、センパイの言葉のおかげで思い止まったんですよ」
「あーあー、思い出したよ。そうだあの時だよ、ちょうど文化祭直前」
「そうです。よかった、思い出してくれて」
 そう言った香菜ちゃんは、なんだかほっとした顔に見えた。それにしても俺の一言がこ
の娘に影響を与えていたのかと思うと奇妙な感じだ。そして、香菜ちゃんは続けて言う。
「それに、東センパイにはいろいろと漫画の描き方とかおしえてもらったし…。だからセ
ンパイ、わたしが高校の漫画部に入ったら、その時もまた教えてくださいね」
「あはは、実は俺、高校でも漫画部に入ってはいるけど、ほとんど幽霊部員なんだよね」
「えっ!?」
 俺の言葉に香菜ちゃんは驚いたようだ。
「じゃ、じゃあ、漫画描くのやめちゃったんですか!?」
「いや、独学で続けてるよ。わかったんだけどさ、俺にはそっちの方が向いてるみたいな
んだよね。部活に出るのは、文化祭前と、他の人たちと情報交換がしたい時ぐらいかな」
「そ、そうなんですか…」
「それにさ、こんなこと言うのも何だけど、うちの漫画部ってあんまり活気がないんだよ
ね。活動日が決まってないし、文化祭前以外は出ることを強制したりもしない。だから、
俺みたいに適当な日の放課後とか休み時間に適当に部室来て、適当に漫画描いて適当に帰
るって連中が多いんだよね」
「そうなんですか…。あの、もしわたしが漫画部に入って、熱心に活動したら、東センパ
イ、出てきてくれますか?」
「えっ?そうだなあ、もし本当に香菜ちゃんが出るんだったら、今年よりは出る日が多く
なるかもね」
 俺がそう言うと、香菜ちゃんの顔が明るくなった。
「ほ、本当ですか、センパイ?」
「うん、本当本当。きっと増えるよ」
「そうですか。よーし、がんばろうっと…」
 なんだか香菜ちゃんがやる気を出している。彼女は気持ちを内に秘めるタイプなので、
こんな風にやる気を前面に出すのは珍しい。
「まあとにかく、がんばってね。もちろん、部活だけじゃなく高校生活全般」
 俺が言った、その時だった。
「東くん、こんにち、わーっ!」
「わーっ!?」
 いきなり背後から大きな声で驚かされた俺は、びっくりして飛び上がった。着地した後
に声のした方を見て見ると、そこには一人の女の子がいた。片瀬克美さんだった。彼女は
ニコニコしている。片瀬さんに驚かされた俺は、心臓をドキドキさせながらこう言った。
「び、び、び、びっくりしたぁ…。片瀬さん、いきなり何するんですか!俺、心臓が止ま
るかと思いましたよ!」
 俺は少し興奮気味になっていた。
「まーまーまーまー、ちょっとした軽いいたずらなんだからさ、そんなに大きな声出さな
いでよ、ね?」
 そう言う片瀬さんの笑顔を見ると、まあ、いいかという気持ちになってしまった。とこ
ろで、俺はここであることを思い出した。
「そういえば片瀬さん、足のケガの方は大丈夫なんですか?」
「足?うん、もう全然平気だよ。間くんだったっけ?彼の処置がよかったおかげで、もう
次の日にはすっかり治ってたよ」
「そうですか。そりゃよかった」
「あの…センパイ、どなたですかこの方?」
 香菜ちゃんが俺と片瀬さんの会話に割って入ってくるように聞いてきた。
「この人?高校の先輩。片瀬克美さんっていうんだ。片瀬さん、この娘は俺の後輩の桂香
菜ちゃんです。今度の4月から、俺たちと同じ高校に通うことになってます」
「へえ、そうなんだ。ボク、片瀬克美っていうんだ。よろしくね桂さん」
「香菜でいいです。こちらこそ、よろしくお願いします、片瀬さん…」
 初対面の相手に対しても物怖じしない片瀬さんと、ちょっとおどおどしているように見
える香菜ちゃん…かなり対称的だなと、俺は思った。
「それにしても、かわいい彼女だね」
 いきなり片瀬さんがそんなことを言った。
「ち、違いますよ!彼女じゃありません!」
「そ、そうです。わたしと東センパイは、ただの先輩と後輩って関係で…」
「なーんだ、そうだったんだ。さっきから見てたらずいぶん仲よさげに話して、おまけに
耳打ちなんかしてるから、ボクはてっきり…」
「み、見てたんですか?わたしとセンパイのこと…」
 香菜ちゃんの顔が赤くなった。
「やだなあ、そんなに一生懸命じーっと見てたわけじゃないってば。ところで、ボクこれ
から“鬼賀屋”に行くんだけど、よかったら二人も行かない?」
「“鬼賀屋”…喜久さんの所ですね?」
「ああ、そうだよ。どうする?憧れの喜久の働きぶり、見に行ってみる?」
「ねえ二人とも、行くの?行かないの?」
 片瀬さんがせかす。
「じゃあ…香菜ちゃん、行こうか?」
「そうですね」
「わーい!それじゃ、早く行こ!」
 こうして俺たち三人は“鬼賀屋”に行くことになった。片瀬さんが前にも聞いた奇妙な
鼻歌を歌いながら陽気に歩くその後ろを、俺と香菜ちゃんがついていく。途中、香菜ちゃ
んが俺にこんなことを言ってきた。
「片瀬さんって、かわいらしい人ですね」
「えっ?まあ、そうだねえ…」
「すっごい細くて、わたしとは大違い…」
「は?」
「い、いえ、何でもありません。忘れてください…」
 そう言ったきり、香菜ちゃんは口をつぐんだ。彼女の真意を計りかねた俺も、それから
何も言わなかった。その間に聞こえてくるのは、片瀬さんの鼻歌だけだった。

 俺たちは“鬼賀屋”についた。片瀬さんが元気よく店の戸を開ける。
「こんにちはー!」
 その大きな声に俺が驚いた。店の中にお客さんがいなかったからよかったけど、いたら
結構恥ずかしいぞこれは。だけど、当の片瀬さんはそんなことは全然気にしないで適当な
テーブルについた。俺と香菜ちゃんもそのテーブルに座った。そしてその数十秒後、喜久
が俺たちに水を持ってきてくれた。
「克美さん、いらっしゃい。それに健くんと香菜ちゃんも…。だけど、この三人が一緒に
この店に来るなんてちょっと意外…」
 確かに、俺たち三人のそれぞれを知っている喜久にとっては、俺、香菜ちゃん、そして
片瀬さんという組み合わせはあまり予想できなかったろう。
「ねーねー、そんなことより、ボク、おなか空いてるんだ。いつものお願いねー!」
 片瀬さんが相変わらずの元気な声で言う。
「はい、かしこまりました。それで、健くんと香菜ちゃんは?」
「俺は今日もただのラーメンでいいや」
「じゃあ喜久さん、わたしもそれで…あっ、やっぱり半ラーメンにしてください」
「かしこまりました」
 そう言って喜久はカウンターの奥にいる親父さんに俺たちの注文を告げに行った。その
後、客が俺たちしかいないもんだから、こちらに戻ってきた。
「それにしても健くん、両手に花よね」
 俺たちを見て喜久がそんなことを言う。どうもからかい半分に言っているようだ。
「たまたまこんなことになっちゃっただけだよ。それに、花はもう一つあるだろう?」
 喜久に対抗して、俺も彼女をからかうように言ってみた。
「えっ、それってわたしのこと…よねやっぱり。やだわ健くん、照れるじゃない!」
 そう言って喜久がチョップで俺のことを叩いてきた。出た、喜久の得意技だ。
「痛て、痛ててててて!やめろよ喜久!」
 とは言え、さっき仁と話していたようにこうやって叩かれるのは親しさの証なので、悪
い気はしなかった。それほど強くぶっ叩かれてるわけでもないしね。が、ここで俺は自分
たちを見ている視線に気がついた。片瀬さんと香菜ちゃんが、半分あきれたような目で俺
と喜久のことを見ている。
「ねー香菜ちゃん、この二人っていっつもこんな風なの?」
「よくわからないですけど…少なくともわたしの知ってる東センパイは、人前でいちゃつ
くような人じゃなかったと思います…」
「こ、これは別にいちゃついてるわけじゃなくてね…」
 喜久が弁解しようとする。その時−。
「おーい喜久、上がったぞー」
 親父さんの声がした。
「あっ、料理できたみたい。持ってくるわ」
 そう言うと喜久はそそくさとその場を離れ、俺たちが食べる物を取りに行った。そんな
彼女と俺を代わる代わる見ながら、香菜ちゃんと片瀬さんがひそひそと話をする。
「だーかーらー、俺と喜久はそんな関係じゃなくって…」
 俺がそう言いかけたその時、喜久が戻ってきた。
「みんな、お待ちどおさま。あら?もしかして、まださっきの話続いてる?」
「続いてたけど、ラーメン来たしもういいや。それじゃ、いっただっきまーす!」
 そう言って片瀬さんがこの前と同じように豪快にラーメンその他を食べ始めた。俺と喜
久の話題が終わったことにほっとしながら、俺もラーメンに手をつける。香菜ちゃんは初
めて見る片瀬さんの食べっぷりに少し引きながらも、同じように頼んだ物を食べ始めた。
それから、十数分後。
「ごちそーさまー!」
 一番量が多かったにもかかわらず、片瀬さんが一番最初に食べ終わった。
「あーっ、おいしかった。じゃあ、ボク行くね。喜久さーん、お会計お願ーい!」
 その声に喜久がテーブルに来た。片瀬さんから金を受け取る。
「それじゃあみんな、まったねー!」
 片瀬さんは席を立った。そして俺たちに手を振った後に店の出入り口の方へ歩いていっ
たんだけど、そこでとんでもないことが起きたんだ。
「あっ!」
 香菜ちゃんがそう言った時にはもう遅く、片瀬さんは、店の敷居に足を引っ掛けて転ん
でしまったんだ。
「‥‥‥‥」
「‥‥‥‥」
 つい先日も片瀬さんが転ぶのを目撃した俺と喜久は言葉をなくした。しばらくして、俺
が口を開いた。
「なあ、喜久…」
「なあに、健くん?」
「あの人、学習能力あるのかな?」
「もしかしたら、ないかも…」
 そんな俺たちの視線の先には、倒れたままでぴくりとも動かない片瀬さんがいた−。

「きゃははははは、東くん、ごめんねー!」
 俺の背中で片瀬さんが笑う。結局また足−前回とは反対の足だった−をケガした片瀬さ
んを、俺がおぶって行くことになったんだ。
「いいですよ、もう…」
 俺は半分ヤケになっていた。そして、そんなヤケになった俺に気づいたのか、背中にい
る片瀬さんがこんなことを言ってきた。
「あ、あのさ東くん、二回もボクのこと送ってもらって本当にごめんね。だから今度お詫
びに、ボクが作った料理ごちそうしてあげるよ。ボクね、料理が趣味なんだ」
「へえ、食べるだけでなく作るのも好きなんですか。得意料理はなんですか?」
「うーんとねー…カツ丼!」
 この片瀬さんの答えに、俺は思わず体勢を崩しかけてしまった。普通の女の子はそうい
う食べ物を得意料理にしないだろう!…なんてツッコミを俺は心の中でしたが、口には出
さないでおいた。
「そ…そうなんですか…。それじゃあ、そのカツ丼を作ってもらえますか?」
「うん、いいよ。だけど、東くんの背中って、本当に広いなあ…」
「だから、しがみつかないでくださいよ…」
 そうは言ったものの、女の子にしがみつかれて、俺も悪い気はしていなかった。それに
しても、こんな状況になっても俺の背中には柔らかい二つの物体の感触がほとんどない。
感じるのは何か板を押し付けられたような感触だ。つまり、片瀬さんは見た目通りかなり
の貧乳だということで…。俺は思わずそんなものすごく失礼なことを考えてしまった。そ
んな思考を打ち消すために、俺は片瀬さんに話しかけた。
「そういえばさっき転んだ時、しばらくぴくりとも動きませんでしたけど…もしかして、
足以外にもどこかケガしちゃったとか…」
「ううん、違うの。何度も転ぶ自分が、なんだか情けなくなってきちゃって…。ボク、も
う少し落ち着く必要があるのかなあ…」
「んー、そりゃある程度は…。だけど、俺としては片瀬さんは元気いっぱいの方が似合っ
てると思います。だから、その元気さが損なわれない程度に落ち着けばいいんじゃないで
すか?」
「そっかあ…。ありがとう東くん」
「別に、例を言われるほどのことは言ってませんよ俺は」
 そんな話をしているうちに、俺たちは片瀬さんの家の前についた。
「気晴らしに出かけてなけりゃ、お父さんいるはずだけど…」
「あれ、そういえば…」
 ここで俺はあることに気がついた。
「片瀬さん、お母さんは?この間お邪魔した時もいなかったみたいだし、もしかして昼間
はどこかで働いてるんですか?」
「お母さん?」
 俺の質問に対し、そうとだけ言った片瀬さんは黙ってしまった。そして少ししてから、
これまでの元気な片瀬さんからは想像できないような声でこう言ったんだ。
「…あのね、ボク、お母さんいないの。ボクが三歳の時に死んじゃったんだ。それ以降お
父さん再婚もしてないから、ボクの家はボクとお父さんの二人暮しで、家のことはほとん
ど全部ボクがやってるの…」
「そうだったんですか…。すみません、知らなかったとは言えそんな質問しちゃって…」
「いいよ、知らなかったんだし。それじゃ、チャイム押すね」
 片瀬さんが玄関のチャイムを鳴らした。
「お父さーん、いるー?」
 片瀬さんがそう言うと、ドアのインターホンから声が聞こえた。
「克美か?ちょっと待ってろ」
 そしてドアが開いた。で、俺の目の前に片瀬先生−。
「あれ、君は確か…。まさか、また…?」
「ええ、そのまさかで…」
「‥‥‥‥」
 先生は、あきれて物も言えないようだ。気持ちはわかる。
「東くん、とにかくどうもありがとう」
「いえ、そんなことは…。よいしょっと…」
 俺は背中の片瀬さんを玄関先に降ろした。
「それじゃあ、失礼します」
 そう言って俺は片瀬さん親子に頭を下げ、玄関を出てドアを閉めた。
「ふうっ…」
 一仕事を追えた安堵感からか、俺は一つため息をもらした。そして、そんな俺の前に一
つの影が現れた。
「よー健吾、何してるんだ?」
「仁…。おまえ、女の子の所に行ったんじゃなかったのか?」
「ああ、行ったよ。でも今日はもう終わり。それよりもおまえはここで何してるんだ?こ
こ、誰の家だ?」
「片瀬さん家」
「片瀬さんって言うと…ああ、この間の子供っぽい先輩か。ここがあの人の家なの?だけ
ど、どうしておまえがここにいるんだ?」
「その子供っぽい先輩が、また転んで…」
「‥‥‥‥」
 その俺の一言で、仁には事の次第がわかったようだった。
「ま、まあいいや。それよりこれからおまえの家に行っていいか?」
「俺ん家?なんで?」
「喜久さんだよ。俺の知らない彼女の情報を教えてもらいたくってさあ。おまえならでは
の秘密情報ってあるだろう?もちろんただでとは言わないぜ。女の子紹介してやるから」
「喜久、喜久…。あーっ!彼女の所に、今日買った雑誌忘れてきちまった!悪い仁、てな
わけで、俺ん家来るのなし!」
「えっ?あっ、おい、健吾!そういうことなら、俺も一緒に行くぞー!」
 そうして俺たちは“鬼賀屋”に向かって走り出した。なお、店で仁は喜久を口説き落と
そうとあれこれ言ったが全て流されてしまい、俺はそれを見て心の中で笑っていた。

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