K’sストーリー第三章 二人の周りで(4)
「うう、緊張する…。本当に俺に片瀬先生のアシスタントができるんだろうか…」
 ついに来た、金曜日。学校が終わって一度アパートに帰った俺は、準備をして指定され
た時間に克美さんの家…と言うより、今日の場合は片瀬先生の仕事場へ向かっていた。
「まあ、下手に緊張しても始まらないな。片瀬先生は俺の実力を認めてアシに抜擢してく
れたんだから、それを発揮すればいいんだ。それに、最初から難しい仕事を任されたりは
しないさ、うん」
 そう自分に言い聞かせながら俺は歩いた。そしてとうとうついた。俺は玄関のチャイム
を鳴らす。
「はーい、どなたですかー?」
 インターホンから克美さんの声がした。
「け、健吾です。先生の仕事の手伝いに来ました」
「あっ、健吾くん。今開けるから、ちょっと待っててね」
 そうして克美さんが玄関のドアを開けてくれた。
「こんにちは健吾くん。あれ?何か、体がこわばってない?」
「こ、こんにちは克美さん。緊張してるんですけど…わかりますか」
「やっぱりそうなんだ。でもそんなに硬くならないで、リラックスリラックス」
「ありがとうございます。それで、先生は…」
「仕事してるよ。とにかく、上がって上がって」
「は、はい、お邪魔します」
 俺は家に上がらせてもらった。この家にはもう何回かお邪魔しているが、実はほとんど
が客間止まりで、先生の仕事場に入るなんてことはなかったんだ。だから、この一歩一歩
が新たなる俺の軌跡になる。そして、仕事場の前についた。
「お父さん、健吾くんが来たよ」
 克美さんがドア越しに言うと、中からこんな言葉が返ってきた。
「ああ、入ってもらってくれ」
 それは確かに片瀬先生の声だったのだが、いつも聞くあの人の声とは、少し感じが違っ
ていた。その声の違いに違和感を覚えつつも、俺は中に入ることにした。
「先生、失礼します!」
 そして俺はドアを開けたのだが、その瞬間、異世界の空気と言うかそんな物が俺の体を
包んだ。違う、やはりここはこの家の他の部屋とは違う。ここは数々の名作が生まれた、
そしてこれからも生まれるであろう言わば聖地なのだからそれも当然だろう。そして俺は
これからその名作を生み出すのを手伝うことになる…と言えるほどの働きができるかどう
かは不明だが、とにかく先生の手伝いをするんだ。そんなことを考えながら部屋の入り口
付近で固まっている俺に先生が言ってきた。
「よく来てくれた東くん。それで、こちらで時間を指定しておいて申し訳ないのだが、実
は君にやってもらいたい仕事の準備がまだできていなくてね、あと20分ほど待っていて
くれないか?」
「は、はい、大丈夫です」
「健吾くん、時間空くの?それじゃ、ちょっとお話したいことがあるんだけど…」
 俺の後ろにいた克美さんが言ってきた。
「話?いいですよ」
「じゃあ、ボクの部屋で話しよう」
「克美、20分だぞ」
「うん、わかってるってば。行こ、健吾くん」
 こうして俺は克美さんの部屋に通された。よく考えると、この人に部屋に入れさせても
らうのも初めてだった。パステルピンクのカーテン、何個かあるぬいぐるみ、かわいらし
い柄のベッドカバー…まごうことなく女の子の部屋だった。それと一番目を引いたのは、
本棚に並ぶ料理関係の本だった。
「さて、それではそこに座ってください」
 いきなり克美さんが敬語でそんなことを言ってきた。なんだか嫌な予感がする。それで
俺は部屋の真ん中に正座をした。その前に克美さんが同じように正座をする。
「あのね、健吾くんに聞きたいことがあるんだけど」
 その克美さんの言葉はいつもの口調だったが、それでもいつもとは微妙に違う。そして
彼女はこう聞いてきた。
「健吾くんが、ボクじゃない女の子と歩いてたって証言を聞いたの。それも日によって違
う女の子と。それって本当?」
 その聞き方は、少し怖かった。そうか、そういう疑念があるから、克美さんの様子がい
つもと違うんだ。それで俺は正直に答えた。
「結論から言うと、それはその通りです。それでその女の子っていうのは、香菜ちゃんと
喜久です」
「そっか、ボクもそうじゃないかとは思ってたんだけどね。あの二人だったら、まあ、許
せるかな。ボクの友達でもあるし、あの娘たちは二人とも、今はもう健吾くんを特別な異
性として見てないみたいだし」
「ええ、そうです。…今は?」
 克美さんの言葉が、俺の心に引っかかった。克美さんは続ける。
「知ってるんだよ、彼女たちが昔健吾くんに恋をしてたってこと。仲いいんだからボクた
ち。それで、はっきりと聞いてみたの。今は健吾くんのことをどう思ってるかって。そし
たら、さっきみたいなこと言われたんだ」
「そうだったんですか…。俺も、彼女たちに対する気持ちは同じような物です。男とか女
とか関係なく、あの二人は…あと仁もですけど、大切な友達です。もちろん、それ以上に
克美さんは大切ですけど」
「本当に大切?」
「ええ、克美さんはすっごく大切な人です」
「そうじゃなくて、喜久さんと香菜ちゃんの方。本当に大切に思ってる?」
 この質問もまた、俺の心に引っかかった。
「あの、それはどういう…」
「香菜ちゃんに聞いたんだ、健吾くんに、もうちょっと距離を置いた方がいいんじゃない
かって言われたって」
 こう言われて俺は、数日前に彼女と一緒に帰った時のことを思い出した。
「ボクにその話した時ね、香菜ちゃん、なんだか悲しそうだった。もちろん、言葉で悲し
いって言ったわけじゃなかったけど、そういう気持ちだってのがボクにはわかった。なん
でそんなこと言ったのさ?前に、『恋人でなくてもいいから側にいたい』って健吾くんに
言ったことがあるって彼女に言われたよ?」
「そ、それは…」
「喜久さんの方もそう。彼女に、ボクの話たくさんしたんだって?いくら今はもう健吾く
んのことを男の子として好きじゃなくなってるとは言え、昔は好きだった人だよ?その人
に他の女の子とののろけ話なんか聞かされて、いい思いするはずないじゃない」
「確かに…そうですね…」
 俺は小さな声で言った。そんな俺に、克美さんは続けて言う。
「ボクはね、今幸せだよ。健吾くんがいるから。だけど、ボクは自分一人だけ幸せになる
のは嫌なんだ。ボクの周りのみんなに幸せになってもらいたいの。特にあの二人は大事な
友達だから…。だけど、今彼女たちはあんまり幸せじゃないと思う。しかもその幸せじゃ
ない原因がボクの彼氏なんだから、いたたまれないよボク」
「優しいんですね、克美さんって…。はっきり言って俺は、自分の彼女だけ…克美さんだ
け幸せにできればいいと思ってました。でもそれって、俺たち二人以外の人にとっては、
わがままなのかもしれませんね。すみませんでした、克美さん」
「ボクに謝っても仕方がないよ。あの二人に謝らなきゃ。今度会った時、忘れずに謝って
おくこと。その上で、みんなで幸せになれるように、努力していくこと。いいね?」
「はい…」
 俺は静かに返事をした。それにしても克美さんはいい人だ。この人がそんな所まで考え
ているとは思わなかった。見た目は子供だが(失礼!)、考え方は結構大人なんだなと感
心させられてしまった。そして、克美さんはこんなことを言った。
「さ、それじゃこの話はもう終わりね。そろそろお父さんの方、いいんじゃない?」
「あっ、そうですね」
「じゃあ、アシスタントがんばってね。その間にボクはご飯作るから」
「はい、がんばります!」
 大好きな克美さんに応援されて、がぜんやる気の出てきた俺だった。

「よし、次はこの原稿を頼む」
「何だ、まだ前のが終わってないのか?」
「それをどうするかの指示は、さっきしたろう!」
「こことこことここ、少し甘いぞ。もっと丁寧にやりたまえ」
 これらはいずれも、仕事中の片瀬先生の言葉だ。克美さんの父親である先生とはうって
変わって、とにかく厳しい。そうだ、この人は『片瀬光太』なんだ。俺も甘えていたわけ
じゃない。手を抜くつもりもない。だけど心のどこかで俺にはそういった気持ちがあった
ようだ。先生の厳しい、そしてどこまでも真剣な言葉を真に受けて、俺は改めて気合いを
入れ直した。初日だからという言い訳をするつもりはないし、そんな言い訳が通用する人
じゃないことがこの数時間の仕事でわかった。だからとにかく俺は自分の実力でできるこ
とを精いっぱいやった。仮にも自分の作品を先生に認められた俺だ、精いっぱいやれば、
先生の足元…いや、指の先ぐらいには及ぶかもしれない。
 そうして気がつけば、俺と片瀬先生は徹夜で仕事をしてしまった。休憩と呼べる物は始
まってすぐの夕食だけで、それからはほとんど休みなしで描き続けた。
「まさか、ここまでペースが上がるとはな…こんなに早く終わるとは思わなかったよ」
 なんだか、先生自身が驚いている。今先生が持っている連載は週刊と月刊がそれぞれ一
本ずつで、特に週刊誌に連載している漫画はもう七年も続いている。今回俺はその週刊誌
用の作品を手伝ったのだが、予想以上の成果を上げられたようだ。
「あの、先生。俺、お役に立てましたか?」
 俺はそう聞いてみた。
「ある意味愚問だな、それは。そこにできている原稿が、その答えと言っていいだろう。
まあ、実を言えばここまで働いてくれるとは思っていなかったが…。少しずつやらせるこ
とを増やしていこうと思ったのだが、君ができるものだからいきなり最初からいろいろな
ことをさせてしまって、すまなかった」
「そんな、逆ですよ。いろいろな手伝いをさせてもらって、ありがたく思ってます。それ
にしても、今日までは毎週先生一人でやってたんですよね?すごいの一言です」
「そうだな、簡単な仕事は克美に手伝ってもらったこともあるが、ほとんど私一人でやっ
ていた。一応、君の前にも何人かアシスタントはいたが、なぜかみなすぐにやめてしまう
んだ。私の手伝いがきついとかそういうことではなく、私のアシになった人間はそれから
間もなくメジャーデビューして、私の手伝いをやめなければなってしまう…」
「それって、先生のおかげで腕が上達してデビューできた、ってことなんじゃないでしょ
うか?…テクニックとか盗まれてません?」
「確かに、そういうことがないとは言い切れないな。…君も盗むつもりか?」
「そりゃあ俺だってプロを目指してますから、参考にできる部分があれば参考にさせても
らいたいって気持ちはありますよ。そもそも、俺がずっと先生のアシスタントで満足する
ような人間だったら、俺のこと採用しましたか?」
「確かにその通りだ。そのくらいの向上心がなければ、上達はしない。それにしても、今
は朝の4時か…。本来なら夜は適当な所で切り上げて今日の朝にまた再開と思っていたの
だが、一気に最後までやってしまったな」
「ということは、今日はこれで終わりですか?」
「そうだな。だが、月に一度は二つの作品が重なる週がある。その時の大変さは、今日の
比ではないぞ」
「はい、覚悟してます。ふわ〜あ、それにしても眠い…」
 俺は思わず大きなあくびをした。
「克美が、寝る前に客人用の寝室に布団を敷いておいたはずだ。そこで眠りなさい」
「はい、そうさせてもらいます…」
「あっ、間違えて克美の部屋に入らないでくれよ」
「しませんって!」
 先生の冗談にツッコんだ後、俺は客用の和室に行った。確かに布団が用意してあった。
「うわあ、俺のベッドよりもふかふかだぁ…ぐぅ…」
 いつもより高価な布団に入った俺は、そのままころりと眠ってしまった−。

「うう…ん?うわあっ、あちーい!」
 眠っていた俺は、自分の周りの温度が急激に上がったことで目を覚ました。そして、自
分が寝ていた布団を目にして一瞬だけ理解に苦しんだ。
「あれ?…あっ、そうか。俺は片瀬先生のアシスタントの仕事やって、それが終わった後
に寝させてもらって…そーかそーか」
 ようやく状況を把握した俺だったが、その時、この部屋のふすまが開いた。
「あっ、起きたんだ健吾くん。おはよう」
「あ、おはようございます克美さん」
「ずいぶんよく眠ってたね。もうお日様昇ってるよ」
「何かすごく疲れちゃって…肉体的な疲れより、精神的な物の方が大きいですけど…」
「そうなんだ。お父さんから、健吾くんの働きぶり聞いたよ。お疲れ様」
「克美さんにそう言われると、なんだか嬉しいですね。…ところで先生は?」
「まだ寝てる。それはそうと健吾くん、お風呂入らないで寝ちゃったでしょう?」
「そういえば、入ってませんね…」
「沸かしてあるから入ってよ」
「あ、ありがとうございます。でも先生より先に入っちゃまずい気もするなあ…」
「お父さんは寝る前にちゃんと入ったみたいだよ。健吾くんがお風呂入ってる間にお父さ
んのこと起こすから、みんなで朝ご飯食べよ!」
「わかりました。それじゃ、そうさせてもらいます」
 そうして俺は風呂に入らせてもらった。俺のアパートの風呂より広いので足を伸ばせる
のがいい。そして、湯船につかりながらこうつぶやいた。
「…これって昨夜克美さんが入ったお湯かなあ…」
 そう言った俺はそのお湯で顔を洗ってみた。なんだか妙な興奮を覚えてきた。やばい、
これじゃ変態チックだ俺。だが、その後で気がついた。
「…よく考えると、間に片瀬先生が入ってるんじゃん…」
 …一気に興奮が収まった。

 俺が風呂を出ると、先生が起きていた。克美さんに起こされたのだろうが、まだ眠いの
だろうか、不機嫌そうな顔をしていた。しかし俺を見ると、人様の前でそんな顔をするの
は失礼と思ったのだろう、表情が緩んだ。
「おはよう東くん。昨夜はご苦労だったね」
「おはようございます先生。昨日は本当にいい経験をさせてもらいました。次回からもま
た、がんばります」
「ああ、期待してるぞ東くん」
「二人とも、ご飯できたよー!」
 克美さんの声だ。そうして俺たちは三人で朝メシを食べた。まるで家族(それも新婚夫
婦+1)のようで、なんだか照れくさかった。
 朝メシを食べさせてもらった俺はそれで先生の家を失礼させてもらうことにした。だけ
ど克美さんも出かける用事があるというので、少し待って一緒に家を出た。
「克美さん、今日はどこに行くんです?」
 歩きながら、俺は聞いてみた。
「んーとねー、昨日テレビで変わったケーキの作り方やってたから、自分で作ろうと思っ
て材料と調理器具買いに行くの。最初は試しにボク一人分のケーキ作るけど、それがうま
くできたら今度は健吾くんにも食べさせてあげるね」
「嬉しいです、期待してますね。…と言うか、付き合いましょうか、買い物?」
「ううん、今日はいいよ。健吾くん徹夜で疲れてるだろうし、どんな材料で作ったのか、
食べてもらうまで内緒にしておきたいし」
「そ、そうですか。そういうことなら今日は帰ります。それにしても、暑いですね…」
 そう言いながら俺は空を見上げた。晴れ渡った空に太陽が浮かんでいる。気がつくと、
額には少し汗がにじんでいた。俺はそれを軽くぬぐう。
「本当、今日は暑いね。もうそろそろ初夏、だね」
 克美さんが言った。そういえばふと思ったんだけど、この人って日焼け対策とかしてる
のかな?真っ黒に焼けても全然お構いなしって感じがするし、何より、焼けた皮を剥けば
シミ一つ残らなさそうだ。そんなことを考えている俺に克美さんが聞いてきた。
「ところで健吾くん、来週中間試験だけど、勉強の方、どう?」
「まあ、ぼちぼちですかね。先生が出した全教科60点以上って条件はクリアできそうで
す。それよりも、克美さんこそどうなんですか?受験生なのに、お菓子作りなんかやって
て大丈夫なんですか?」
「へーきへーき。ちゃんと勉強してるもん。だけど、中間テストが終わってもすぐに期末
テストだなあ…」
「そうですね」
「でも、それが終わったら夏休み!ねえ健吾くん、休み中はいっぱい遊ぼうね!」
「だから克美さんは受験生…でもまあ、ちょっとぐらいならいいですかね」
「やったあ!よーし、それじゃまずは中間試験、がんばるぞー!」
 克美さんが張り切る。そう、もうすぐ夏が来る。この人と出会って、初めての夏が−。

<第三章了 第四章に続く>
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