K’sストーリー第五章 絆、もっと強く(1)
「あー、熱が39度以上ある…まずい、数字見たらさらに調子悪くなってきた…」
 八月もちょうど半分を過ぎ、高校2年生の夏休みも残り半月となったある日、俺、東健
吾は不覚にも夏風邪をひいてしまった。
「やっぱり、あの大雨の中、同人誌即売会に出かけたのが原因だよな…。だけどあのイベ
ント、年に二回しかないし…」
 俺は寝転がっているベッドの上から、そのイベントで買ってきた本の山を見ながらつぶ
やいた。そしてさらに言う。
「あー、こういう時、一人暮らしってきついよなあ…。そうだ、克美さんに来てもらえな
いかな…恋人なんだし、頼ってもいいよな…」
 それで俺はベッドの上から手を伸ばし、携帯電話を取ってかけた。かけた先は付き合っ
てる彼女の克美さん…のはずだったんだけど−。
「もしもし仁だけど。健吾、何か用か?」
 なぜか、俺の親友である男が電話に出た。
「あ、あれ…?なんで仁が克美さんの電話に出るんだ…?」
「何言ってんだおまえ?これは正真正銘俺の電話だ。かけ間違えたんじゃねーの?」
「そ、そうみたいだな…。やばい、風邪のせいでもうろうとしてる…」
「風邪?何だ健吾、風邪なんかひいたのか?」
「ああ…それで克美さんに助けを求めようとしたんだけど…」
「それが間違えて俺の所にかけちまったってわけか。そりゃかなりの重病だな。…えっ?
何だい喜久さん?代われって?」
 電話の向こうで、仁が俺の知り合いの名前を出した。そしてその直後、その人間が電話
に出た。
「もしもし健くん?喜久だけど」
「えっ?喜久?なんで君が仁の電話に…?」
「仁くん、ちょうどわたしの家の“鬼賀屋”に来てラーメン食べてたところなのよ。それ
より夏風邪ですって?大丈夫?」
「いや、正直なところ、かなりやばいかもしれない…。だから克美さんを呼ぼうと思った
んだけど…」
「そう。それじゃ早いところこの電話終わらせた方がいいわね。もう切るわ。じゃあ健く
ん、お大事にね」
「ああ、ありがとう…」
 それでこの電話は終わった。
「しかし、間違えて仁の所にかけるとはな…。今度は、間違えないように…」
 そう言って俺は再度電話をかけた。今度はかける前に相手先が克美さんの携帯だという
ことを確認してからかけた。
「もしもし、克美だよ!こんにちは健吾くん」
「ええ、こんにちは克美さん…。いきなりですけど、今日は何か用事ありますか?」
「ううん、特にないよ。今まで受験勉強してたんだけどちょうど一区切りついたところだ
し。それよりも健吾くん、なんだか声が元気なさそう…」
「実は風邪をひいちゃいまして、熱がすごいんですよ…。それで、看病に来てもらえない
かなって思って…」
「えっ、風邪!?そりゃ大変だ!ボク、急いで健吾くんのアパートに行くよ!」
「ええ、すみませんがお願いします…ちなみに、必要な物がほとんどないんですけど…」
「わかった、用意して持ってくから。ボクが行くまで持ちこたえててね!」
「すみません、よろしくお願いします…」
 そうして俺は電話を切ったのだが、これでずいぶんと気が楽になった。克美さんは家庭
の事情で家事全般をやっている。もちろんちょっとした病気の看病もできる。そんな彼女
が来てくれれば俺の風邪も大丈夫だろうと思ったんだ。
「とは言え、来てくれたその瞬間に治るわけでもないし、いろいろ用意してきてくれるっ
てことだから、来るまでに時間かかるかもな…」
 そんなことを考えながらベッドの上でうなっていると、玄関のチャイムが鳴った。それ
で俺はベッドから這いずり出てドアの前に立った。が、覗き窓から見えたのは克美さんで
なく、別の女の子だったんだ。
「香菜…ちゃん…?なんで彼女が…?いずれにせよ、出なきゃ…」
 そう思った俺はドアを開けた。
「あっ、東センパイこんにちは。風邪の方は大丈夫ですか?」
「正直、あまり大丈夫じゃない…。って言うか、なんで君がそのこと知ってるの?」
「さっき間さんから電話があって、センパイが重病だからお見舞いに行ってやれって…。
克美さんに来てもらうって言ってたけど、もしあの人が来れなかった時のためにって…」
「そうなんだ…。仁のヤツ、余計なことを…」
 俺がそう言うと、香菜ちゃんは困惑した顔を見せた。
「す、すみませんセンパイ、わたしが来たのは余計なことでしたか?」
「い、いや、そうじゃないよ。君がお見舞いに来てくれたのはむしろ嬉しいよ。余計なの
は仁がわざわざ香菜ちゃんにそれを伝えたことだよ。知らなきゃ、俺なんかのために君の
時間を使うこともなかったわけだし…」
「わたしは、知らせてもらえてよかったと思ってます。それに、どうせわたしの家はすぐ
近くなんですし…」
「そっか。ありがとう…。ところで、香菜ちゃんもあのイベントに行ったんだろう?君は
大丈夫だったの?」
「はい、わたしも雨に降られましたけど、帰ってからすぐにお風呂に入りましたから…。
センパイ、そういうことしなかったんですか?」
「実はそうなんだ。しとくべきだったな…。とにかく、さっき克美さんと連絡取れて、来
てもらうことになったから…」
「そうですか。あの人が来るんでしたら大丈夫ですね。じゃあ帰りますので、このお見舞
いの品だけ受け取ってもらえますか?近くのスーパーでリンゴ買ってきたんですけど…」
「えっ、わざわざ?どうもありがとう香菜ちゃ…」
 その時、急にめまいがした。自分の体を支え切れず、前のめりになっていくのが自分で
わかった。まずい、このままじゃ香菜ちゃんを押しつぶしてしまう。この娘はかなり非力
だから、絶対に一緒に地面に倒れることになる。そう覚悟したその時−。
「よいしょーっ!」
 そんな声と共に、俺の体が急停止した。見ると、俺と香菜ちゃんの間に一人の小さな女
の子が割って入り、両腕で俺の体を支えていた。克美さんだった。この人は高校3年生に
もかかわらず中学生みたいに小柄だけど、見た目に反して結構な力持ちだったりする。だ
から、俺に押しつぶされないでいるんだ。とは言え、さすがにずっと支えてるのはきつい
ようだ。
「お、重い…。け、健吾くん、早く自分で自分の体支えて…」
「す、すいません…」
 それで俺はアパートの壁を使ってどうにか体勢を立て直した。
「ふう…。すみません克美さん…」
「あー重かった。やっぱり男の子の体を支えるのは辛いよ。だけど健吾くん、起きてて大
丈夫なの?」
「す、すみません克美さん。わたしがお見舞いに来たから、センパイ、玄関先まで出てき
てくれて…」
「そうだったんだ。わざわざありがとう香菜ちゃん。だけど、あとはボクがいるから大丈
夫だよ」
「そうですね。それじゃあ克美さん、センパイのことよろしくお願いします。センパイ、
お大事にどうぞ」
 そう言って俺たちに頭を下げると、香菜ちゃんは帰っていった。その後、克美さんが俺
の方を見て言った。
「さあ、香菜ちゃんも帰ったことだし、病人がいつまでも起きてない!」
「そ、そうですね。それじゃさっそくベッドに…」
「そうそう。一人でベッド行ける?」
「ええ…」
 それで俺はフラフラと歩き、どうにかベッドまでたどりついた。そしてそのままベッド
に潜り込んだ。
「あーっ、健吾くん、そのまま寝ちゃダメ!」
 克美さんが言ってきた。
「あるだけの掛け布団掛けて、それとできる限り服を着込んで、悪い汗出すの。汗になっ
て出た水分は、体に吸収されやすいスポーツドリンク買ってきたからそれ飲んで補給する
んだよ。あと、冷却シートも持ってきたからおでこに張ってね。で、薬飲んで、寝る!」
「は、はい…」
 一気にいろいろな指令が出たので俺は圧倒されてしまった。さすがは克美さんだ。それ
で俺は彼女の言う通りにして、それから改めてベッドに入った。
「うん、それでよし。あとはゆっくり眠っててね。その間にボクは、買ってきたパックの
ご飯でおかゆ作るから。それと風邪ひきさん用の食事も。健吾くん、お台所借りるね」
「はい、お願いします…。終わって帰る時に俺が寝てたら、テーブルの上の鍵で玄関に鍵
かけて、郵便受けにそれ入れておいてください…」
「わかった。じゃあ、もう寝て。寝ないと治らないよ。起きたら汗びっしょりになってる
はずだから、着替えてね」
「はい、おやすみなさい…」
 そうして克美さんがおかゆその他を作る音を聞きながら、俺は眠りに落ちていった。

「ん…んんっ?…はっ!?」
 寝込んでいた俺は、熱さで目が覚めた。自分の顔を触ってみると、かなりの量の寝汗が
出ていた。
「そりゃあ、夏場にこんな厚着して、その上たくさんの布団をかぶって寝たら、汗もかく
よ。でも、おかげでいくらか熱は下がった…かな?」
 そう言って俺は自分の額を触ってみた。冷たかった。そりゃそうだ、寝る前に冷却シー
トを張っておいたんだから。
「…まだボケてんのかな俺…。どちらにしろ、こんな汗で濡れた服を着たままじゃ風邪が
悪化しちまうから着替えないとな。ところで、今何時だろう?」
 そう思った俺は部屋の時計を見てみた。夕方の六時ぐらいだった。そしてそれと同時に
部屋の中にあるテーブルで寝ている克美さんを見つけた。
「あれ、克美さん、帰ってなかったのか…」
 俺はベッドから出て、眠っている克美さんの肩に手を置いて軽く揺すった。
「克美さん、克美さん…」
 すると、彼女が目を覚ました。
「ほえ…?あっ、健吾くん!ダメじゃない起きちゃ!まだ熱下がってないんでしょう?」
「ええ。でも、いくらかはよくなりました。克美さんの言った通り汗びっしょりになった
んで、着替えようと思ったんです」
「そっか。ボクの方は、ちょっと眠っちゃってたみたいだね。健吾くんが寝てる間におか
ゆと、消化のいい物作っておいたよ。今食べる?」
「いえ、まだちょっとそこまで食欲が戻ってないんで…」
「うーん、そっかあ…。でも、食欲がなくても食べなきゃダメだよ。今日中には食べるこ
と。あと、香菜ちゃんが持ってきてくれたリンゴを剥いて、冷蔵庫に入れておいたから」
「はい、わかりました。こんな時間までいろいろすみません克美さん。早く帰って先生の
晩メシを…っと、今日はいないんでしたっけ、先生?」
「うん、お父さん、明日の夕方まで旅行に行ってるんだ。今日はボク一人だから、帰って
簡単な物作るよ。それじゃ健吾くん、ボク帰るけど、お大事にね」
「はい、ありがとうございました」
 そう俺は言ったのだが、その時見た克美さんの顔が、なんだか赤いように見えた…のは
気のせいだろうか。俺はまだぼーっとしているので、そのせいかもしれないと思った。
「ん?ボクの顔に何かついてる?」
「い、いえ…。どうやら、まだ熱が下がり切ってないみたいです俺…」
「じゃあ、早く着替えてもう一度寝た方がいいよ。それじゃね健吾くん。早く治して、ま
た二人でどこか出かけようね」
「はい、さようなら」
 こうして克美さんは帰っていった。その後俺は、服を着替えて、また眠った。次に目が
覚めた時にはえらい空腹だったので、克美さんが作ってくれた料理を温め直して食べたの
だった。そのころには、もうだいぶ熱も下がっていた。

 翌日の朝、目を覚ますと、俺の体温はすっかり平熱に戻っていた。体もものすごく軽い
し、頭痛なんかもしない。もうカンペキに風邪は治ったようだ。きっと克美さんのおかげ
だろう。で、食欲も元に戻ったのだが、克美さんが作っていってくれた料理は昨夜のうち
にほとんど食べてしまっていた。この時点で残っていたのを食べ尽くしてもまだ空腹は収
まらない。だが何か作るのもめんどくさいし、そもそも材料がない。なので外に食べに行
くことにした。行き先はもちろん“鬼賀屋”だ。
「ちゃーす」
「いらっしゃいま…あら、健くん。もう風邪の方は大丈夫なの?」
「出歩いても平気なんですかセンパイ?」
 “鬼賀屋”に入ると、この店で働いていた喜久と香菜ちゃんが俺に言ってきた。
「ああ、もうすっかり元気。克美さんの看病と、手料理のおかげでね」
「よー健吾、よかったじゃねーか治って」
「なんだ仁、また今日もこの店来てたんか。おかげさんでな。それよりも仁、昨日は何香
菜ちゃんに電話してんだよ。おかげで余計な気を使わせちゃったじゃないか」
「いえ、わたしは別によかったですけど…」
「いやー、もしも克美さんを捕まえられなかった時のためにって思って気を回してやった
んだよ。ま、結局は無駄になっちまったみたいだけどな」
「いや、そうでもないよ。香菜ちゃんが持ってきてくれたリンゴおいしかったし」
「いいわね健くん、二人も女の子にお見舞いに来てもらって」
 からかうように喜久が言った。
「喜久、それってもしかして妬いてるのか?だったら君も来ればよかったじゃないか」
「わたしはこのお店の手伝いがあったし…それに、妬いてなんかないわよーだ」
「わかったわかった。それより俺、ラーメンの大盛りね」
「わかったわ。ちょっと待っててね」
「OK」
「喜久さーん、俺の頼んだのは?」
「あっ、間さんのは、ちょうど今上がったところですね。わたし、持ってきます」
 香菜ちゃんがその場を離れた。喜久も仕事に戻った。俺はと言うと仁のついていたテー
ブルに一緒に座ることにした。そしてすぐさま仁のラーメンが来たので、仁はそれを食べ
始めた。それからしばらくして俺が頼んだのも来たので食べ始めた。その間、俺たち二人
は無駄話で盛り上がった。もちろん仁は先に食べ終わったが、その後も二人で話をした。
「んぐ…んぐ…んぐ…ぷはーっ!ごちそうさまでした。あーうまかった」
 俺は、ラーメンのスープまで飲み干して言った。
「健吾おまえ、いつもよりペースが早かったな。そんなに腹減ってたのか?」
「ああ、かなりな。…ん?悪い、電話だ」
 俺の携帯が鳴ったので、ポケットから出した。画面を見ると、克美さんからだった。
「はいもしもし健吾ですけど」
「あっ、健吾くん?克美だけど…風邪、治った?」
「はい、克美さんのおかげで、もうすっかり完治しましたよ。ありがとうございました」
「そう、よかったね…」
 その克美さんの声は、なんだか元気がないように聞こえた。
「克美さん、声の調子が変ですけど、何かあったんですか?」
「あっ、やっぱりわかる?…あのね、すごく恥ずかしいんだけど、今度はボクが風邪ひい
ちゃったみたいなの…」
「えっ?もしかして…いや、もしかしなくても俺のがうつっちゃいました!?」
「うん、たぶんそうだと思う…」
「す、すいません克美さん、俺のせいで…!あっ、確か先生旅行に行ってるから、今家に
一人でしたよね!?俺、今から行きます!」
「うん、実は風邪治ってたら来てもらえないかなって電話したの…悪いんだけど、来てく
れる?」
「はい、今すぐに行きます!」
 そして俺は電話を切った。その電話を聞いていた仁が言う。
「おまえ、克美さんに風邪うつしちゃったのか?」
「ああ。あの人、風邪の菌がいっぱいの俺の部屋で寝ちゃってたからなあ…」
「あーあー、片方が風邪ひいてるのに二人で激しい運動なんかするから…」
「その『寝る』じゃ…ないでしょ!」
(ガスッ!)
 いつの間にか俺たちの側に来ていた喜久が、チョップで仁の後頭部を強打した。いい音
がした。叩かれた仁は、頭を押さえながらこんなことを言う。
「痛ててててて…いきなり叩かないでくれよ喜久さん…。ひょっとしたら、そうかもしれ
ないだろー?」
「あるわけないでしょ、健くんと克美さんに限って!…よね?」
「喜久が正解。とにかく、今から克美さんの家に行くから俺。喜久、これラーメン代ね」
「はい、ありがとう。でも健くんも病み上がりなんだから、無理しちゃダメよ」
「ありがとう喜久。それじゃ、また」
 そうして俺は“鬼賀屋”を後にした。それで俺は克美さんの家に行く前に一度自分のア
パートに戻った。昨日克美さんが持ってきてくれたアイテムがいくらか残っていたのでそ
れを持ち、克美さんの家に急いだ。彼女の家についてすぐに俺は玄関のチャイムを鳴らし
た。インターホンの向こうから声がする。
「…どなたですかあ…?」
 克美さんの声だったが、かなり元気がない。
「俺です、健吾です!」
「ああ、もう来てくれたんだ…今開けるから…」
 そしてドアが開いたのだが、その向こうにいたのは、顔を赤くした、パジャマ姿の克美
さんだった。
「こ、こんにちは克美さん。すみません、俺のせいで…」
「ううん、あの部屋で眠っちゃったボクも悪いし…とにかく、上がって…」
「はい、お邪魔します」
 と言うわけで俺は家に入れさせてもらった。ドアを閉めて振り返ると、玄関先で克美さ
んが座り込んでしまっていた。
「克美さん、大丈夫ですか!?」
「んー、まずいかも…健吾くん、ボクの部屋まで連れてって…」
「は、はい、わかりました。じゃあ、おんぶしますね」
「うん…」
 了解が出たので、俺は克美さんを背負ってこの家の二階にある彼女の部屋まで行った。
そしてベッドに寝かし付ける。克美さんの赤い顔は、さっきよりもひどくなったように見
えた。
「とりあえず、何度あるか計るべきかな…」
 そう言って俺が部屋の中を見ると、俺が来る前に使ったのか、体温計があった。
「克美さん、体温計りましょう」
「うん、わかった…」
 そう言うと克美さんはベッドの中で置き上がり、パジャマのボタンを外していった。そ
して俺から受け取った体温計を脇の下に差し入れるべく、その胸元を大きく開けようとし
た。
「ちょ、ちょっと克美さん、ストップ!」
「ふぇ?なんで?」
「そんな無防備に胸元開けたら、中見えちゃいますって!」
「えっ…?きゃーっ!健吾くんのエッチーっ!」
「エッチって…そうなりそうだからストップかけたんじゃないですか俺…」
 とは言いつつも、止めなきゃよかったかなと思う俺もそこにはいた。チラリと見た感じ
では、ブラが見えなかった。パジャマだからつけてないんだろうか?それとも、通常時で
も…?ともかく、その後克美さんは最小限の露出で体温計をセットした。数分して、計り
終えたことを知らせるアラームが鳴った。
「んっと…38度8分…」
「かなり来てますね。とりあえず、昨日の俺みたいに汗を出すことが先決ですかね」
「そだね…。じゃあボク着替えるよ。その間に健吾くん、台所の冷蔵庫に氷枕が入ってる
から、タオルに包んで持ってきてくれない?」
「わかりました」
 それで俺は台所に行った。言われた通りに氷枕とタオルを持って克美さんの部屋に戻る
と、彼女はさっきよりも厚着になっていた。
「はい克美さん、氷枕です」
「ありがと健吾くん。で、あと一つお願いしたいんだけど…」
「何ですか?何でも言ってください」
「そこの押し入れに冬用の掛け布団があるから出してもらいたいの。夏だけど、それ使っ
て汗出すから」
「わかりました」
 俺は克美さんに言われた通りにした。寝る準備ができると、克美さんは額に冷却シート
を張り、熱冷ましの薬を飲んだ。その後、頭と普通の枕の間に氷枕を入れて、ベッドに潜
り込んだ。そしてその状態で俺に言ってくる。
「じゃあ、ボク寝るから…」
「はい、ゆっくり休んでください。俺はここにいますから」
「ありがと。それじゃ、おやすみ…」
 そう言って克美さんは目をつぶった。少しすると呼吸が寝息に変わった。俺は眠った克
美さんの顔を覗き込んだ。まだ赤いので心配になったが、はっきり言ってこれ以上俺には
何もできない。俺にできるのは、克美さんが目を覚ました時に寂しくないようこの部屋に
いることだと思い、ずっとそこにいた。

 克美さんが眠っている間に、俺はあることを思い出していた。一週間ほど前に俺と克美
さん、それに仁たちと一緒に旅行に行った時、克美さんは温泉で湯当たりをした。その時
も俺はこの人を看病したんだ。元気そうに見えて、克美さんって実は意外と病弱…なわけ
はない。前回も今回も、言ってしまえば通常ではあまりありえないことが原因になってる
んだから。
「ねえ、健吾くん…」
 過去のことを回想していると、克美さんの声が聞こえた。目を覚ましたらしい。
「克美さん、起きたんですか?気分はどうです?」
「うん、さっきよりは楽になったよ。今、何時かな?」
「えーっと、午後三時ぐらいですね。眠ってから、二時間ぐらいたってます」
「そっか…。あのね健吾くん、ボク、おなか空いちゃった…」
「それじゃあ、何か買ってきますよ。何が食べたいですか?」
「うーんと…“鬼賀屋”のラーメン…」
 病人がそんな重い物食べて大丈夫なのだろうかと思ったが、同時にこの人なら平気だろ
うとも考えた。
「わかりました、それじゃあ、出前してもらいます。何ラーメンにしますか?」
「普通のラーメン。量も普通でいいや…」
「普通…でいいんですか?じゃあ、それを注文します」
 そう言うと俺は携帯から“鬼賀屋”に電話をかけた。電話には、喜久が出た。
「はい、“鬼賀屋”です。…あら健くん、わざわざお店の方にかけるなんてどうしたの?
克美さんの所に行ったんでしょ?」
「ああそうだよ。今も彼女の家。克美さんがラーメン食べたいって言うから、出前してほ
しいんだ。普通のラーメンの普通盛り。あっ、一つじゃ出前してくれないんだっけ?」
「普通はそうだけど、克美さんはお得意様だから一杯でもいいわ。だけど、克美さんが普
通盛りでいいなんてねえ…」
「ああ。やっぱり、彼女まだ復調してないんだ」
「そうなんだ。まあとにかく、注文は受けたわ。なるべく早く届けるから」
「頼むね、喜久」
 そんなやり取りがあって十数分後、この家の玄関のチャイムが鳴った。
「ん、出前が来たのかな?」
 それで俺は玄関に行って、インターホンのボタンを押して言った。
「どちら様でしょうか?」
「毎度ー、“鬼賀屋”でーす!」
 その声は、男の声だった。あの店に男の店員は喜久の親父さんしかしないはずだが、調
理担当のあの人が出前に出てくるはずはない。奇妙に思った。すると、ドアの向こうの人
間がせかすようにこんなことを言った。
「おい健吾、早く開けろ!ラーメンが伸びるぞ!」
「えっ、まさかと思うが…仁か?」
「正解。つーか最初のでわかれよな。とにかく、早く開けろ」
「あ、ああ…」
 それで俺がドアを開けると、そこには出前用のおかもちを持った仁がいた。
「なんだっておまえが“鬼賀屋”の出前なんかやってるんだよ?」
「いやあ、おまえが店を出てった後もずっとあそこで粘ってたら、よっぽど暇みたいねっ
て喜久さんに言われちゃって…」
「俺がここ来てからもう二時間はたってるんだぞ。そりゃ暇人って思われるわ。今日は女
の子とのデートとかないのか?」
「今日は、な。それに、愛しの喜久さんと愛を語らいたかったし。そこにおまえからの電
話が来たもんだから、持ってってってことになったわけよ」
「ふーん、なるほどね。だけど、おまえがいつまでもあそこにいなけりゃ、巻き込まれる
こともなかったんじゃないか?」
「それはそうだけど、喜久さんの役に立てたんだから、これはこれでOKだぜ」
 仁はそう言いながらおかもちを開けて、中の物を取り出した。
「あれ?俺が頼んだのはラーメンだけだったはずだけど…何だこのギョウザ一皿?」
「知らねー。俺は喜久さんに渡されたおかもちをそのまま持ってきただけだから。…ん?
何かメモが入ってるぞ。『健くんへ。克美さんの看病ご苦労様。これはサービスです。喜
久』…だってさ。うらやましいじゃねえかおい」
「たかがギョウザでそこまで言うか?」
「喜久さんに特別扱いされたってことがうらやましいんだよ。それじゃ健吾、ラーメン代
払え」
「払うっておまえに?ってことはおまえ、またあの店に戻るつもりか?」
「ああ。ま、さすがに今度戻ったら、ラーメン代とおかもち渡してすぐ帰るけどな」
「そうか。じゃあこれ代金な。喜久に、サービスありがとうって言っておいてくれ」
「わかった。それじゃおまえから克美さんには、俺がお大事にって言ってたって伝えてお
いてくれよ。彼女じゃないとは言え、女の子が病気なんて心配でしょうがない」
「ああ、わかった。サンキューな仁」
「俺がここに来たのは、おまえのためじゃなくて喜久さんのためだよ。じゃあな」
 そうして仁は帰っていった。俺は玄関を閉めると、一度台所に行っておぼんを取ってき
た。それで今来たラーメンをおぼんに乗せて克美さんの部屋に戻った。部屋のドアをノッ
クする。
「克美さん、ラーメン来ました」
「えっ、あっ、ちょっと待って健吾くん!今着替えてるの!」
「き、着替え!?」
 その言葉に俺は過敏に反応してしまった。それで俺はドアの前で待った。
「…もういいよ健吾くん」
 克美さんの許可が出たので、俺は中に入った。彼女の服が変わっている。汗をかいたの
で着替えた、ということか。そしてそれを見た俺は、じゃあ今までの服は?と思った。見
ると、部屋の片隅に、大きな布がかぶせられた小山ができていた。あの下にさっきまで着
ていた、克美さんの汗がしみ込んだ服があるのだろう。当然、その中には下着も…。が、
ひとまずその小山は見なかったことにして、俺はこう言った。
「つーわけでラーメン来たんですけど、こっちのテーブルで食べられますか?」
「うん、それくらいは平気。ボク、おなか空いてるから、早く食べたいな」
「はいはい」
 そう言うと俺はおぼんに乗っていた物をテーブルの上に移動させた。
「あれ?健吾くん、それは何?」
「このギョウザですか?実はかくかくしかじかで…」
「ふーん、そうなんだ。喜久さんってやっぱり優しい娘だね。とにかく、食べよ食べよ」
「そ、そうですね」
 そうして克美さんがラーメンを、俺はサービスのギョウザを食べた。しかし、さすがに
克美さんの食べるペースがいつもより遅い。やっぱり今のこの人は病人だ。が、病人とは
言えさすがは克美さん、結局は全部を食べ切った。
「あーおいしかった」
「克美さん、おなかの方は大丈夫ですか?」
「うん、平気だよ。ふぁー、おなかがいっぱいになったら眠くなっちゃった…」
「じゃあ、もう一眠りしますか?」
「うん、そうする。それにしても、もうそろそろお父さん帰ってくるはずだけど…」
「それじゃあ、先生が帰ってくるまでこの家にいますよ、俺」
「ありがとう健吾くん。じゃあ、おやすみ…」
「おやすみなさい」
 こうして、克美さんは再び眠った。それからまた俺はこの部屋にいたのだが、しばらく
して、玄関の鍵を開ける音がした。克美さんのお父さんの片瀬光太先生が帰ってきたよう
だ。それで俺は克美さんの部屋を出て、玄関に行った。
「片瀬先生、取材旅行、お疲れ様でした」
「えっ、東くん…?なぜ君が…」
 玄関先で娘の克美さんでなく俺に出迎えられた先生は少し驚いてる。その先生に俺は、
昨日と今日の出来事をかいつまんで説明した。
「なるほど、それで今克美は眠っているということか…。すまなかったね東くん」
「いえ、元はと言えば俺の風邪が原因ですし…」
「まあ、確かにそうだな。今後は体調管理に気をつけなさい。さて、後は私が看病するか
ら君はもう帰りなさい。君とて、まだ体調が完全ではないのだろう?」
「そうですね…。では、お願いします」
「ああ。それと、明後日からまたアシスタントをやってもらうからよろしく頼むよ」
「わかりました。それじゃあ、さようなら」
 そう先生に言って、俺はこの家からおいとまさせてもらった。帰り道で、俺はこんなこ
とを考えた。
「克美さんの風邪も、明日には治りそうだな…。それにしても、昨日の俺も今日の克美さ
んもそうだけど、病気の時に一人っていうのはすごい心細いもんなんだよなあ…」
 それが、今回の件で俺が切実に思ったことだった。

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