K’sストーリー第五章 絆、もっと強く(3)
 そうしてついに俺の片瀬家での生活が始まった。引っ越した翌日に、いきなり最初の試
練がやってきた。その日俺は外出をし、用事を済ませた後、帰った。
「ただいまー」
 この家でこの言葉を言うのは初めてなので多少の戸惑いはあったが、俺はそう言った。
だが、返事はなかった。克美さんも先生も出かけてはいないようだが…。それで俺が家の
中に入ると、リビングで克美さんが一人で気持ちよさそうに扇風機の強風を浴びていた。
克美さんと扇風機の距離はものすごく近い。それで俺の声も聞こえなかったのだろう。し
かもちょうど部屋の入り口に背を向けた形になっているので、真後ろに俺がいることに気
づいていない。それで声をかけようとしたところ−。
「あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
 克美さんはいきなり、扇風機に向かって声を出し始めたんだ。なんだか微笑ましい気分
になったが、その次の彼女の行動はそんなことを言えない物だった。
「あー、風当たってても暑いよお…」
 そう言うと克美さんはなんと、着ていたTシャツの前面を一気にまくし上げたんだ!そ
して直接体に風を当てている。俺は真後ろから彼女を見ているので、背中の方の露出は変
わっていない。しかし、だからこそ前がどうなってるかが気になる。さらに−。
「あー涼しい。そーだ、こうすればもっと涼しいよね」
 その言葉の後、克美さんはシャツをバッサバッサとやり始めた。そのたびに背中がチラ
リチラリと見え隠れする。このまま俺がいることに気づかなかったら、この人最後にはT
シャツを脱いじゃうんじゃないか?かと言って今ここで声をかけたら、俺がその少し前か
らずっと克美さんを見ていたということがばれてしまう。そこで俺は彼女に気づかれない
ように静かに玄関まで戻った。そしてさっきよりも大きな声で言う。
「ただいまーっ!!」
「あっ、健吾くん?お帰りなさーい」
 その声の後、克美さんがリビングから出てきた。もちろん、シャツはちゃんと下ろされ
ている。やっぱり俺が今帰ってきたと思っているようだ。見られていたことに気がついて
ないので、それについて何も言わない。気づいていないふりをするということも考えられ
るが、この人はそんな高度なまねはしないだろう。
「お帰り健吾くん。外、暑かった?」
「ええ、思いっきり。もうすぐ9月だってのに、溶けちゃいそうでしたよ」
「そう。あっ、溶けちゃうって言えば冷凍庫にアイスあるんだけど、食べる?」
「それじゃ、いただきます」
「じゃあ持ってくから、リビングに行ってて」
「はい」
 それで俺はリビングに行ったが、さっきと同じように扇風機は強風を送り続けていた。
それからすぐ、克美さんが棒アイスを持ってきた。二本あった。
「こっちがボクの分で、こっちが健吾くんの分。はいどーぞ」
「どうも。それはそうと、エアコンつけてなかったんですか克美さん」
「うん。ボク、もともとエアコンの風ってあんまり好きじゃないんだ。扇風機で十分!」
「そうなんですか。で、扇風機つけてる時にはいつも…」
 ここで俺は言葉を止めた。思わず、「さっきみたいにシャツをバサバサやってるんです
か?」と聞こうとしてしまったバカな俺。言葉の止まった俺を、克美さんが不審に思う。
「健吾くん、どうしたの?」
「あー、何でもないです。ところで、先生は出かけてませんよね?何してるんです?」
 俺は、ごまかすように話題を変えることにした。
「お父さん?お父さんは今、お昼寝中だよ。今晩出かけるから、体力温存するんだって」
「今起きたよ」
 不意にそんな声がした。見ると、起き抜けで少しぼーっとしている先生がリビングに来
ていた。そして先生は言う。
「帰っていたのか東くん。克美、すまないが眠気覚ましのコーヒーを入れてくれんか?」
「はーい。眠気覚ましなら、ホットのがいいね」
「ああ、頼むよ」
 それで克美さんはキッチンに行った。その後、俺は先生に聞いてみた。
「あの先生、今晩出かけるんですか?」
「ああ。それですまないが、おそらく今日は帰らないと思う」
「そ、それじゃあ、今日の夜は俺と克美さんの二人っきりってことですか?」
「ああそうか、そういうことになるな」
「ああそうかじゃなくて…不安じゃありませんか?」
「不安?…ああ、そういうことか。私は君を信じている、とだけ言っておこうか。それに
もしそういうことになってしまった時は、責任取ってここで一生暮らしてもらうまでだ」
「!!」
「…というのは冗談にしても、君を信じているのは本当だ」
 先生の言葉に、俺はどう対応したらいいかわからなくなってきた。果たして俺は、先生
が思ってるほどできた人間なんだろうか。さっきみたいな無防備な行動を克美さんに何度
も取られたら、俺だってブレーキが効かなくなるかもしれない。とは言え、俺は先生に信
頼されてるんだ。それを裏切らないようにしようと、そう思った。その時、キッチンから
克美さんが戻ってきた。
「お父さん、コーヒーお待たせ」
「ああありがとう。ところで克美、今晩は帰れないと思うが、大丈夫だな?」
「うん、平気だよ。これまでだってそういうことは何回もあったし、それに、今は健吾く
んもいるしね」
 克美さんの言葉に、その俺が災いにならなきゃいいなと、そう考えた。

 その後、先生が出かける前に仕事をするというので、俺もそれを手伝った。しばらく二
人で仕事場に閉じこもっていたが、先生が出かける時間になったので、作業を終えてそこ
から出た。時間は夕方の6時ごろだった。
「ふふんふ〜ん、ふふふふふ〜ん」
 仕事部屋を出ると、キッチンの方から何やら歌声が聞こえてきた。克美さんが、料理を
しながら歌っている鼻歌のようだ。俺はその曲が何かすぐにわかった。最近流行っている
女性アイドルの歌だ。が、よく聞くと音程がずれている。そうだった、この人、音痴だっ
たんだっけ。
「まあ、鼻歌なんてのは誰に聞かせる物でもないから、適当に歌えばそれでいいんだけど
な…ん?くんくん…」
 俺は鼻を鳴らした。克美さんの声と一緒にキッチンから流れてくる物があった。彼女が
作っている料理の匂いだ。
「あー、いい匂いだなあ…今日のおかずは何だろう?」
「行けばわかるだろう。どちらにしろ、今日は私は食べないがね」
 そんなことを言いながら俺と先生はキッチンに入った。克美さんが俺たちに気づく。
「あっ、健吾くん。ご飯もうすぐできるから。お父さんは今日はいらないんだよね?」
「ああそうだ。さて、それでは私は出かけよう。克美、東くん、後は頼んだぞ」
「はーい。行ってらっしゃいお父さん」
「先生、お気をつけて」
 というわけで先生は外に行ってしまい、この家に来て早々、俺は克美さんと二人きりで
一夜を過ごすことになってしまった。その事実に、俺の体が強ばってきた。一方克美さん
はと言うと、さっきと変わらず鼻歌を歌いながら料理を続けている。
「ふんふふ〜ん、ふふんふふ〜ん」
 あれ?これってさっきの場所だよな?同じ所なのに、音がずれている。やっぱり克美さ
ん、かなりの音痴だ。それはともかく、そのうち料理ができたので、二人で食べた。
「ごちそーさまー!あーおいしかった。ん?健吾くん、まだ食べてるの?」
「克美さんが早過ぎるんですってば。それに俺は、せっかくの克美さんの料理なんだし、
ゆっくり味わって食べたいんです」
「あはは、そんなたいした物じゃないよ。だいたい、これから毎日食べるんだよ?」
「それはそうですが…とか言ってる間に俺も食い終わりましたね。ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした。さーて、さっさと洗い物しちゃおうっと」
「克美さん、食器洗うのは俺がやりますよ。居候させてもらってるんだから、それくらい
はしないと」
「いいの?それじゃお願いしちゃおうかな。拭くのはボクがやるよ」
「じゃあ、早いところやっちゃいましょう」
 というわけで俺は皿洗いをしたのだが、俺と克美さんの二人で食べたにしてはやけに皿
の数が多いことに気がついた。やっぱり克美さんが自分で食べるだけあって、品数が多い
ということだろう。そしてさらによくよく見てみると、使っている食器はどれもなかなか
の高級品だということに気づいた。さすがは片瀬先生の家と言ったところか。これらを毎
日扱っている克美さんって、実はすごいんじゃなかろうかと思った。そしてそんな高価な
食器類を俺は丁寧に洗い、とりあえず何事もなく全て洗い終えた。
「…っと、これで終わりですね」
「うん、そうだね。ありがとう健吾くん。あとは、これを食器棚に…」
 そう言って克美さんは食器を棚にしまっていく。さすがは克美さん、どこに入っていた
のか全部覚えているらしく、外にあった皿が次々と棚の中に消える。そして最後の一つに
なったのだが、それはやたらと高い場所にしまうべき物のようだ。身長145センチの克
美さんには届かない場所だが、どうやって取ったんだろう?と思っていたら、彼女はイス
を踏み台にした。取る時もこうやって取ったんだろう。が、それでもイスの上で背伸びを
しなければならない高さだ。かなり危ない。と言うか、克美さんより40センチ近く背が
高い俺がしまえばいいんじゃないか。そのことに気づいた俺は、克美さんに声をかけよう
とした。
「克美さん、危ないから俺が…」
 と俺が言ったその時、彼女がバランスを崩した。
「えっ?あっ、わわわわわわ…!」
「危ない克美さん!」
 俺は克美さんを受け止めた。それで、いわゆる「お姫様だっこ」の形になった。なお、
食器も克美さんの腕の中にあって無事だった。
「危なかったあ…克美さん、大丈夫ですか?」
「うん、ボクは平気だけど…ごめん健吾くん、重くない?」
「そんなことありませんよ。それよりすみません克美さん。あんな高い所にしまうんだか
ら、俺がやればよかったんですよね。今度から、もっと早く言います」
「ボクこそごめん。あまり健吾くんに頼っちゃいけないって思ったから自分でやったんだ
けど…これからは、もっと頼りにするね。それより…」
「はい、何でしょう?」
「そろそろ降ろしてくれないかな?本当言うとずっとこうしててもらいたいけど、いつま
でも二人してこのままじゃ、このお皿片付かないし…」
「あっ、ご、ごめんなさい!」
 そう言って俺は抱きかかえていた克美さんを降ろした。
「あっ、えーと…じゃあそれ、俺がしまいます」
「うん、それじゃお願いね」
 というわけで俺が最後の皿をしまって、後片付けは終わった。なんか、いろんな意味で
疲れた気がした。その俺に、克美さんが言ってくる。
「健吾くん、先にお風呂入ってくれる?ボクその間に、明日の朝のお米研いどくから」
「わかりました、それじゃあ先にいただきます」
 それで俺はそのまま風呂に入ったのだが、そこでこんなことを考えた。
「さっきの、『本当言うとずっとこうしててもらいたいけど』って克美さんの言葉、なん
だかすごい嬉しい感じがしたな。けど、かと言ってあの人がその先のことを望んでるとは
思えないし、そんなことしたら先生に申し訳が立たないもんな。…待てよ。逆にそういう
既成事実を作ってしまえば、俺はずっとこの家で克美さんと一緒にいられ…って、何考え
てるんだよ俺!そんなことのために克美さんをどうこうできるか!」
 そう言って俺は自分を怒ったが、それもいいかもしれないなと考える俺がいるというこ
とも、自分自身で感じ取っていた。果たして今晩どうなるか、それは、この時の俺には全
く予想はできなかった。

 俺が風呂から出ると、克美さんはリビングで洗濯物をたたんでいた。
「よーし、これで終わりっと。あっ、健吾くん、お風呂出たんだ」
「ええ。克美さんも入っちゃいますか?」
「うん。でもその前に…」
 そう言うと克美さんは立ち上がり、リビングにある棚の引き出しを開け、何かを取り出
した。そしてそれを持ったままソファに座り、俺に見せた。
「えへへ、これなーんだ?」
 そう聞かれた俺は、それをよく見るため克美さんに近づいた。
「えーっと…耳かき…ですよね、どう見ても」
「あったりー。ねね、健吾くん、耳掃除してあげる!」
「な、何ですかいきなり?」
「本当はね、ずーっと前からいつかやってあげたいなーって思ってたの。でね、今日はお
父さんもいないしチャンスだなーって」
「はあ…。でも、耳掃除ってことはつまりその…もしかして、膝枕ですか?」
「うん、そう。ほら健吾くん、ここ来なよ」
 そう言って克美さんは、自分の太ももを指差した。ショートパンツを履いているだけな
ので、生脚状態の太ももをだ。
「そんな、いきなり言われても…ちょっと恥ずかしいな…」
「ボクら恋人同士じゃないか。それに今、ボクたちしかいないんだよ、この家に」
 二人きりだからこそ、そういった煩悩を誘発する行為が危険だということに、この人は
気がついてないんだろうか。それで俺は、頑なに克美さんの提案を拒否した。
「やっぱりいいです、俺、自分でできますから」
「健吾くんができるかどうかじゃなくて、ボクがやりたいかどうかなの!」
 克美さんはいつもは見た目に反して精神年齢は結構大人なんだけど、たまに見た目通り
にわがままになったりすることがある。今がそれだ。で、どうにかあきらめさせる方法は
ないかと思案していたところ−。
「あー、もう!ウダウダ言ってないで、こっち来る!」
 そう言うと克美さんは、俺の腕をつかんだ。そしてそのまま彼女に腕を引っ張られた俺
の頭が、「ぽふっ」という感じで克美さんの太ももに乗った。ちょうど、俺と克美さんが
同じ方向を向くような形だ。
(や…柔らかくて気持ちいい…!)
 それが、この状態で俺が思った感想だった。これまでに何度もこの人の体に触れたこと
はあったが、はっきり言ってこんな柔らかさを感じたことはなかった。克美さんが貧乳な
ものだから、おんぶしたって背中にほとんど何も感じないんだ。そして俺が太ももの柔ら
かさにぽーっとなりかけた時、克美さんが言ってきた。
「むふふ、やっと耳掃除ができる体勢になったぞ。健吾くん、危ないから動かないでね」
「克美さん、やっぱり俺、いいです…」
「もー、この体勢になってまで何言うんだよ!往生際が悪いぞ!」
 往生際か…。このままだと俺、往生っつーか昇天しそうなんだけど…などというシモの
ギャグはともかくとして、ここで無理に暴れたら俺の鼓膜が危険だ。だから覚悟を決め、
じっとしていることにした。
「やっとおとなしくなったね。それじゃ、始めまーす」
 それで克美さんが耳掃除を始めたのだが、これがまた気持ちいい!頭の下から感じる気
持ちよさとはまた違った意味での気持ちよさだ。それほど上手なんだ。
「か、克美さん、すごいうまいですね、耳掃除…」
「うん。お父さんにもこうやってしてあげてるから」
 そうか、先生もしてもらってるんだ。うらやましい…って、親子だよ親子。などと俺が
思っている間に、片方の耳の掃除が終わったようだ。
「よーし、これでこっち側はOK。健吾くん、今度は反対の耳やるよ」
「あっ、はい。それじゃ…」
 それで俺は何の気なしにそのまま寝返りを打とうと思ったのだが、そうすると俺と克美
さんの位置関係がかなりやばいことになるということに気がついたので、やめた。そこで
俺は一度立ち上がり、さっきと反対の耳が上になるように、なおかつ顔の方向はさっきと
同じになるように寝転がった。
「なんだか今、すごくめんどくさいことしなかった?」
「そ、そうでしょうか?」
 どうやら克美さんは、俺があのまま寝返りを打っていたら俺たちのポジショニングがど
うなっていたかわかってないようだ。
「ま、いいか。それじゃ今度はこっち側、やりまーす」
 というわけでもう片方の俺の耳も掃除する克美さん。やっぱり、もう少しで眠ってしま
いそうなほど気持ちがよかった。
「はい、できたよ健吾くん」
「ありがとうございました。すみません、こんなことしてもらって」
「さっきも言ったでしょ、ボクがやりたいからやったんだって」
 そう言う克美さんは、自分がしたいことをできてすごく満足そうだった。が、次に彼女
はこんなことを言ってきたんだ。
「それじゃ今度は健吾くんがボクにしてね」
「えっ、俺が?でも俺、他人の耳掃除なんかしたことないし…」
「耳掃除はいいよ。膝枕だけしてくれれば」
「そ、そうですか…。ま、俺もしてもらったことだし、こんなのでよければ…」
「わーい。はい、それじゃそこに座ってね」
 それで俺は言われた通りソファに座った。
「えへへ、それじゃ…」
 そう言うと克美さんは「ころん」といった感じで俺の太ももに寝転がった。
「あー、なんかすっごい幸せ…」
「克美さんが幸せだと、俺も幸せです。しかし、この体勢じゃ何もできないな…」
「テレビは見れるでしょ。二人で見よー」
「そ、そうですね」
 というわけで俺はその場所からテレビのリモコンに手を伸ばし、この体勢のまま克美さ
んと一緒に適当にテレビを見たのだった。

 克美さんを膝枕したまま、俺は彼女と二人でしばらくテレビを見ていたのだが、ふと見
ると、克美さんが目をつぶってしまっていた。それで俺は彼女の体を揺する。
「克美さん、寝ちゃダメですよ。お風呂まだでしょ?」
「ふにゃ…?あ、健吾くん…そっか、お風呂入ってなかったっけ…じゃあ入る…」
 それでようやく克美さんが俺の上からどいた。そしてその後風呂場に向かったのだが、
寝ぼけているのか足取りがおぼつかない。少し心配になったが、いくらなんでも大丈夫だ
ろうとも思った。で、克美さんがいなくなった後、俺は適当にテレビのチャンネルを回し
てみた。ニュース番組がやっていたのでとりあえずそれを見ていたのだが、気がつくと、
克美さんが風呂に行ってからもう一時間が過ぎていた。
「女の子の入浴時間なんてよくわからないけど、少なくとも昨夜はこんなかかってなかっ
たよな…。ちょっと心配だな」
 そう思った俺は風呂場の前まで行った。もちろん中に入るわけにはいかないので、扉の
前から中に向かって呼びかけた。
「克美さーん?」
 すると、その直後−。
「ふえっ…?…ガボッ、ガボガボガボ…ぶはあっ!…はあ、はあ、はあ…」
 すごい声…というか音というかが聞こえた。
「克美さん、もしかして寝てました!?それで今、溺れました!?」
「だ、大丈夫!大丈夫だから!」
 いや、どう聞いてもダメっぽかったぞ今のは。でもあえて追求せず、こう言った。
「本当に大丈夫なんですね?」
「うん、平気平気」
「じゃあ俺、リビングにいますからね」
「う、うん」
 そんなわけで俺はまたリビングに戻った。そして十分ぐらいしてから、克美さんが風呂
から出てきた。その彼女に俺は言う。
「克美さん、お風呂で寝たりなんかしたら、また風邪ひいちゃいますよ」
「ね、寝てないもん」
 絶対嘘だと俺は思ったが、やっぱり追求するのはやめておいた。
「まあいいですけどね。で、明日のために今晩やっておくことは、もうないんですか?」
「うん。もう終わったよ。だからボクもう、寝る。健吾くんはどうする?」
「俺ももう、自分の部屋に行きます。部屋で起きてるかもしれませんけど」
「そう。じゃあもう下の明かりは消すね」
「はい」
 というわけでその後俺たちは一緒に二階に上がり、それぞれの部屋に行くことにした。
階段を昇ると、手前に克美さんの部屋、奥に昨日から俺の部屋になった部屋がある。それ
で克美さんが彼女の部屋のドアを開けて中に…入る前に、俺に言ってきた。
「それじゃ健吾くん、おやすみ。また明日ね」
「えっ、あっ、はい、おやすみなさい…」
 それで克美さんは部屋に入ってドアを閉めた。さっきまでの行動で、もしかしたら克美
さんが誘惑してくるかもとか思っていた俺が、ものすごくバカに思えた。少しの間その場
で呆然と立っていた俺だったが、やがて自分の部屋に入った。
「…疲れた…」
 それが、部屋に入った俺の第一声。本当にいろんな意味で疲れたが、先生が泊まりで出
かける日が来るごとにこんなことがあったんじゃ正直精神的にきつい。そういった日は、
めったにないんだろうけども…。
「とにかく、俺は我慢する。克美さんから言ってこない限り、あの人に手は出さない!」
 そう心に決めた、二人きりの夜だった。

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