K’sストーリー第五章 絆、もっと強く(4)
 そんなこんなで克美さんや先生との生活にもようやく慣れ始めてきた8月30日の朝。
克美さんが課外授業を受けに学校へ行ってしまったので、俺は先生と二人で家にいたのだ
が、そこでこんなことを聞かれた。
「東くん、君は今日の午後、何か用事はあるかね?」
「午後ですか?特に何もありませんが…」
「そうか。今日、克美の課外授業は午前中で終わるだろう?それであの娘が学校から帰っ
てきたら、みんなで出かけたいと思うのだが…」
「いいですけど…どこに行くんです?」
 俺がこう聞くと、先生は、ゆっくりとこう答えた。
「実は、今日は私の妻、節子の命日でね、墓参りに行くんだよ」
「先生の奥さん?つまり克美さんのお母さんですよね?そんな大切な人のお墓参りに、俺
なんかが一緒に行っていいんですか?」
「君は私の家で暮らしている。それは私の家族と同様ということだ。だから連れていこう
と思ったのだがね。まあこれは、お願いに近いのだが…」
 どうやら俺は先生に、もはや他人でないと認められたらしい。そう思ってもらっている
のは嬉しい。そしてそう思われているのに行きませんと言うバカもいないだろう。
「わかりました、先生たちとご一緒させていただきます」
「そうか、ありがとう」
 というわけで、午後になって克美さんが帰ってきた後、俺たち三人は片瀬先生の運転す
る車で先生の奥さんのお墓があるお寺に向かった。その車中、克美さんはいつもと違って
神妙な顔をしていた。それはそうだろう。小さかったからよく覚えていないとは言え、自
分を産んだ女性の墓参りに行くんだから。
 それから車を走らせること約一時間、俺たちはそのお寺についた。そしてまず最初に、
このお寺の住職に挨拶をすると先生が言ったので、俺と克美さんもついていった。
「こんにちは、和尚さん」
「ああ、お待ちしていましたよ片瀬さん。昨日連絡をいただいた通りの時間ですな。しか
しなぜ今年はこんな時間に?」
「午前中、克美の学校の課外授業がありましてね、それで遅くなったんですよ」
「なるほど、そうでしたか。そういえば克美ちゃんは受験生でしたな。どこの高校を受験
するんです?」
「あの…大学受験なんですけど…」
「ああ、そうでしたな。ほっほっほ、これは失礼。…おや?そちらの方は?」
 俺のことらしい。その質問に、先生が答えた。
「少し理由ありで、ついこの間から私の家に居候し始めた東健吾くんという少年です」
「居候?ほほう、何かと訳ありのようですな。片瀬さんも、いろいろと大変ですね。それ
で、さっそくお墓の方に行くのですか?」
「ええ。ところで、彼女は来ましたかね?」
「いいえ、まだですな。あなた方に時間を合わせて来ると言っていましたから、もうそろ
そろでしょう。来たら、もうあなたたちは先にお墓に行っていると伝えておきますよ」
「そうですか、ありがとうございます。では克美、東くん、行こうか」
「はーい。それじゃ和尚さん、帰りにまたよります。行こ、健吾くん」
「あ、はい」
 こうして俺たちは墓地に向かったのだが、さっき先生が言った「彼女」というのが誰な
のか気になった。だが、人の家の事情に首を突っ込み過ぎるのもどうかと思ったので、何
も言わないでおいた。そして少し歩き、克美さんのお母さんが眠っているお墓についた。
周囲の物に比べると新しい。きっとお母さんが亡くなられた時に建てられたのだろう。
「さて、それじゃまずは掃除をするか。東くん、手伝ってくれたまえ」
「あっ、はい。でも何をすれば…」
「これから私は、墓標を洗うための水を汲んでくる。その間に君は、周囲の雑草をむしっ
ておいてくれ。それから克美、前に供えた花を捨ててきてくれ。今日持ってきたのと取り
替えるから」
「はーいお父さん」
「それじゃ俺も、草むしりやります」
 というわけで先生と克美さんは一度この場を離れ、俺だけが残った。そして草むしりを
していた俺だが、その最中気になる物を見つけた。それは、故人の没年などが刻まれてい
る墓誌。そこには二人の故人の情報が刻まれていた。先生の奥さんが亡くなられた時に建
てられたお墓だったら、その人の分だけが刻まれているはずだ。だとするとそれ以前から
あるお墓なんだろうか?そう思ってそれをよく見てみると、一人目の名前は「片瀬節子」
で、亡くなった日は今から14年前の今日。以前に克美さんから、お母さんは彼女が三歳
の時に亡くなったと聞かされていたので、それと合う。じゃあ、二人目のはいったい…?
そう疑問に思いながら、それを見てみた。
「あれ?二人目の没年月日も片瀬節子さんと同じ…?名前は…片瀬光也…享年0歳?」
 その時、先生が水汲みから戻ってきた。
「おお、周囲の草がすっかりなくなっているね。これで十分だ。ありがとう東くん」
「いえ。それより先生、このお墓なんですけど…」
「それでは、早いところ洗ってしまうか。節子、今きれいにしてやるからな」
 先生は、俺の言葉を無視して墓石を洗い始めた。聞こえなかったのか、それとも聞こえ
ていたのにわざと聞こえないふりをしたのか…。ともかくこの状況で改めて聞き直すのも
なんだなと思ったので、それ以上の詮索はしないでおいた。そしてそのうちに克美さんも
戻ってきたので、全員で掃除をした。
「よし、こんな物でいいだろう。では、線香をあげよう」
 それでまずは先生が線香をあげた。次に克美さん。二人とも、線香をあげた後に目をつ
ぶって手を合わせる際に、結構長い時間それをやっていた。やっぱりかなりの思い入れが
あるんだろう。そして最後に俺。俺も同じように線香をあげて手を合わせ、目をつぶる。
(はじめまして、東健吾といいます。克美さんの恋人やらせてもらってます。それから片
瀬先生の仕事の手伝いをさせてもらってます。この間から、二人の家に住まわせてもらっ
ています。俺なんかがあなたのお墓参りに来ていいものかと思いましたが、先生に頼まれ
たので来ました。これからも克美さんや先生とお付き合いさせていただきますので、よろ
しくお願いします…)
 そんなことを心の中で言って、俺は目を開けた。そして後ろを振り向くと、そこに一人
の見知らぬ女性がいた。年のころは片瀬先生と同じくらい。驚いて声をあげる俺。
「うわあっ!?」
「あっ、ご、ごめんなさい。驚かせてしまったみたいで…」
「い、いえ、俺の方こそ大きな声出してすみません。先生、どなたなんです、この方?」
「この人は節子の妹の宮子さんだ。私たちと同様に、毎年この日に墓参りに来ている」
「そうだったんですか。はじめまして、俺は…」
「健吾くんのことは、健吾くんが手を合わせてる時に話したよ。それより、宮子おばさん
がお線香あげられないから、早くどいてあげて」
「あっ、すみません」
 克美さんの言葉に謝った後、俺と入れ替わるようにこの宮子さんが線香をあげた。やっ
ぱり長い時間手を合わせていた。そうか、この人がさっき先生と和尚さんが話をしていた
「彼女」だったんだ。
「さて、これで全員が線香をあげたわけだが…」
 先生が言ってきた。
「宮子さん、今日もいつもの年と同じように、千葉から電車とバスでここまで来たんです
か?」
「ええ、そうです」
「それじゃあ宮子おばさん、この後もいつもと同じようにボクん家来るの?」
「ええ、お邪魔させてもらうわ。でもその前に…」
 宮子さんが、俺の方を向いて頭を下げた。
「改めてはじめまして、片瀬節子の妹、草薙宮子です」
「あ、こちらこそはじめまして、東健吾です。草薙っていうのが、先生の奥さんの旧姓な
んですか?」
「いや、節子や宮子さんの元の名字は天野だよ。宮子さんも結婚しているのでね、草薙と
いうのはその嫁ぎ先の名字なんだよ」
「そうなんです。それにしても、克美ちゃんも恋人ができる歳になったのね。私もおばさ
んになるはずだわ」
「あー、そういえばおばさん、今日は久実花ちゃん来てないの?」
 急に克美さんが割り込んできた。
「ごめんなさい克美ちゃん、夏休みの宿題が終わってなくて、来られなかったのよ」
「そうなんだ。残念だなあ」
「そうね、あの娘も克美ちゃんに会いたがってたわ」
「あの、先生、久実花ちゃんって?」
「宮子さんの娘だ。つまり私の姪であり、克美のいとこにあたる」
 俺にそう説明した後、先生は今度は克美さんたちに言った。
「では二人とも、そろそろ行こうか。宮子さんも私の家でいいんだね?」
「はい。お願いします光太さん」
「その前にお父さん、和尚さんに挨拶してかなきゃ」
「ああ、そうだったな」
 というわけで俺たちはこのお寺の和尚さんに再度挨拶をした後、また片瀬先生の車で家
に帰ったのだった。

 帰りの車の中である。今回は行きよりも一人増えて四人乗りだったが、行きと同じよう
に積極的に話をする人間はいなかった。めったに会えない宮子さんとなら積もる話もある
んじゃないかと思ったが、どうもそんな雰囲気ではないらしい。そんな中、ようやく先生
が口を開いた。
「少し小腹が空いたな。どこかで何か食べていくか?」
「うん、ボクもおなか空いた。でも、家に帰って作った方がいいかな。おばさんに、前よ
りも上達したボクの料理を食べてもらいたいし」
「そんなに上手になったの?そう言われるとそっちが食べたくなるわね…」
「そうですか…。宮子さん、今日はこちらに泊まれるのですかな?」
「ええ、主人や娘にはそう言ってきました」
「では、軽く外で食べて、夕飯は克美に作ってもらうことにしましょう。いいか克美?」
「うん。それじゃお父さん、帰りに材料買うからスーパー寄って」
「ああわかった。何か食べてから行くことにしよう」
 それで先生は軽食の取れる適当な店に車を走らせた。その後、そこでちょっとした物を
食べてからスーパーに向かった。そこで克美さんが買い物をする。宮子さんと俺はそれに
ついていき、先生は車に残った。食事をしている間や買い物をしている間は、克美さん親
子と宮子さんは結構楽しげに話をしていた。さっきの重い雰囲気は、車の中という閉鎖さ
れた空間だったせいだったのだろうか。それはともかく克美さんの買い物が終わったので
俺たちは車に戻り、そしてそのまま家に帰った。
「よーし、やるぞー!今日はボクが一番得意な料理作るからね!」
 そう気合いを入れて克美さんが料理を作り始める。この人の一番の得意料理と言うと…
カツ丼か。前に作ってもらったことがあるが、すごくうまかった。そして今日もそのもの
すごくうまいカツ丼を、どこか調子の外れた鼻歌を歌いながら克美さんは作っている。俺
たちはリビングでお茶を飲みながらそれができるのを待っていたが、急に宮子さんが克美
さんのいるキッチンに行った。
「わっ!ダメだよおばさん、できあがるまで待ってて!」
「いいじゃない。できあがりの味だけじゃなくて、手際のよさとかも見たいのよ」
「んー、そういうことなら…」
 キッチンから聞こえてくるそんな声を聞きながら、俺は一緒にリビングにいた先生にこ
んなことを言った。
「なんだか、声聞いてると本当の親子みたいですね、あの二人」
「確かにそう聞こえなくもないが、あの娘の母親も、私の妻も、節子一人だよ」
 その言い方が、なんだか憮然とした口調だったので、俺は思わず謝った。
「す、すみません先生、先生の気持ちも考えずに思ったことを口にしてしまって…」
「いや、私こそ悪かった。君は聞こえる声からそう判断しただけなのにな」
 その後、俺たち二人はなんとなく重い雰囲気になってしまった。それを打ち破ったのは
克美さんの声だった。
「よーし完成!二人とも、できたよー!」
「できたようですね。行きましょうか先生」
「ああ、そうだな」
 それでキッチンに入る俺たち。テーブルにはできたてのカツ丼四人前が湯気を立ててい
た。見た目もうまそうだし、匂いもすごくいい。
「それじゃみんな、食べよ。いただきまーす!」
「いただきます」
 いつもならいただきますと言ったらものすごい勢いで食べ始める克美さんだが、今日は
違っていた。宮子さんが食べるのをじっと見守っている。そしてカツを一口口にした宮子
さんは、にっこり笑ってこう言った。
「うん、合格」
 それを聞いた克美さんの顔が一気に明るくなった。
「本当?おばさん、本当においしい?」
「ええ。もう私が作るのよりずっとおいしいわ」
「やったあ、嬉しいなあ、嬉しいなあ」
 克美さんはすごく喜んでいるが、そんな彼女を見ながら俺はこんなことをつぶやいた。
「俺や先生があれだけおいしいおいしいって言ってるのに…俺たちの舌って、そんなに信
用ないんですかね?」
「そういうわけじゃないさ。実は克美は最初、宮子さんに料理を教わったんだ。自分の先
生とも言える人にお墨付きをもらえて、嬉しいんだろう。ついでに言うと、その他の家事
も基礎的なことは宮子さんに教わっているんだ」
「なるほど、そういうことだったんですか」
 先生の言葉に、俺は納得した。そんな俺たちに克美さんが言う。
「ほら、お父さんも健吾くんも冷めないうちに食べて。なんてったっておばさんにおいし
いって言ってもらえたカツ丼なんだから!」
「あっ、はい、いただきます」
 というわけで俺たちはみんなでこの熱々のカツ丼を食べた。今日というシチュエーショ
ンや今聞いた話のせいで、いつもとは違った味を感じた気がした。

 いつもより一人多い食事は楽しく終わった。その後、いつものように克美さんが食事の
後片付けや洗濯物へのアイロンがけなどをしたのだが、その時ずっと宮子さんが彼女につ
きっきりだった。生徒の素行を見守る先生と言った感じだったが、その手際にもうカンペ
キと言われていた。もちろんそう言われた克美さんはものすごく喜んでいた。
 その後何時間かして夜も遅くなったので、俺と克美さんはそれぞれの部屋で寝ることに
した。が、俺は暑さのためかなかなか寝付けなかった。それで俺は水を飲もうとキッチン
に行ったのだが、その時、リビングに明かりがついていた。そこから話声が聞こえる。片
瀬先生と、宮子さんの声だった。
「…しかし早いものですな。節子が死んで、もう14年か…」
「本当に早いですね…。あの時三歳だった克美ちゃんが、大学受験をする年齢になってし
まったんですから…。あの娘を見ていると、姉さんの若いころ…中学生時代を思い出しま
すわ。本当にそっくりなんですもの」
「そう言うあなたも、節子とそっくりだったんですよね。つまり、克美と若いころの宮子
さんもそっくりだということですね」
「ええ。でも、まさか男の子と同居してるとは思いませんでしたわ」
「彼がこの家に住むことついては、私が提案したものですがね。それが、私や克美、そし
て東くんとって最良だと思ったものですから」
「そうですか。…光太さんは今、幸せですか?」
「ええ、幸せですよ。宮子さんは、どうなんですか?」
「私だって幸せですよ。主人や娘とも円満にやっていますし…。でも、あの時光太さんが
私の想いを受け止めていてくれたら、今とは違った幸せがあったのかもしれないって、今
日あなたたちに会ってふと思ったんです…」
「…やめましょう宮子さん。あれはもう過去のことです。それに、もし仮に今あなたが独
身だったとしても、私の答えは、あの時と同じです」
「…そうですか。やっぱりそう言われると思っていました。いずれにせよ私じゃ、姉さん
の代わりに克美ちゃんのお母さんになることはできなかったんですね…」
 俺は、重大な話を聞いてしまった気がした。そうか、宮子さんは先生と一緒になりたい
と思っていた時期があったんだ。それがいつのことかはわからないが、ともかく先生はそ
れを断ったということ。克美さんは、過去にそんなことがあったということを知っている
んだろうか?いずれにしても、やはり先生の中で克美さんのお母さんである節子さんの存
在は特別な物なんだろう。こんな話を聞いてしまった俺は、キッチンで水を飲むどころで
なく、そのまま自分の部屋に戻ったのだった。

 その翌日。今日も克美さんは課外授業がある。出かける前に彼女が宮子さんに聞いた。
「おばさん、今日は何時ごろ帰るの?」
「そうね、もう出るわ」
「あっ、そうなんだ。それじゃ、駅まで一緒に行こう」
「そうしましょうか。それでは光太さん、失礼します。また来ますね」
「ええ。何かの折には、私の方からそちらへ行きますので」
「おばさーん、早く行こーう!それじゃ二人とも、行ってきまーす」
 そして克美さんたちは行ってしまい、俺と先生だけが残った。そこで先生が俺に言う。
「さて東くん、少し話があるのだが、いいかね?」
「ええ、いいですけど…」
「それじゃあ、食後のお茶でも飲みながら、リビングで話をしよう」
「わかりました。お茶は、俺が入れます」
 というわけでキッチンで二人分の緑茶を入れ、俺はそれを持ってリビングへ行った。
「先生、お待たせしました」
「ありがとう。では、そこに座ってくれたまえ」
「あっ、はい」
 それで俺は先生に言われた通りにした。そして先生が言う。
「話というのはだね…東くん、君は昨夜、私と宮子さんの話を聞いていたね?」
「えっ、気づいてたんですか?…すみません、聞くつもりはなかったんですが、耳に入っ
てきてしまって…」
「いや、別に責めるつもりはないよ。聞かれて困るような話でもないし」
「そうですか…。…あの、それが聞かれて困る話でないんだったら、もうちょっと突っ込
んだ質問をしてしまってもいいですか?」
「例えば?」
「先生は、奥さんが亡くなられてからずっと男やもめだったんですよね?再婚とかは考え
なかったんですか?宮子さんのプロポーズも断っていたみたいだし…」
「再婚か…。正直、考えたことはほとんどなかったな。と言うのは、節子は生きているか
らだ。克美の中にね」
「克美さんの?そういう時は、先生の心の中に生きているって言いません?」
「確かに私の中にも節子はいる。だが、彼女は私の中以上に克美の中にいると、私は思っ
ている。この際だ、君に私たち親子のことを詳しく話しておこう。昨日君が気になってい
た、節子の墓に眠っている、もう一人の人物についてもね」
「やっぱり聞こえてたんですね、俺の質問…」
「ああ。あの場では聞こえないふりをしたが、ちゃんと聞こえていたよ。さて、どこから
話そうか…」
 そう言うと先生はお茶を一口飲んだ。そして湯飲みを置くと、再び口を開いた。
「そうだな、私と節子の出会いから話そう。私は高校卒業まで名古屋にいたのだが…」
「先生って名古屋出身だったんですか!?」
「ああそうだよ。高校の近くに値段が安くて量がものすごく多い料理を出す喫茶店があっ
てね、世話になったもんだ。なんせ私も、若いころはかなりの大食漢だったからね」
「そうか、克美さんの大食いは血筋だったんだ…。あっ、いきなり話の腰を折ってしまっ
てすみません。続けてください」
「ああ。知っての通り私は高校在学中にプロの漫画家としてデビューし、学校に行きなが
ら作品を描いていた。そのころはまだ読み切り作品ばかりだったがね。そして高校卒業を
機に、故郷を離れ、出版社のある東京へ出てきた…」
 そしてそこから、先生と節子さん、さらには克美さんの話が始まった。

 高校を卒業して東京に出てきた片瀬先生は、アパートを借りて一人暮しを始めた。最初
のころは漫画家の仕事だけで生活していくことはできないので、アルバイトなどもやって
いたそうだ。そしてある日、先生がアパートに帰ると、隣の部屋の前で一人の女性が苦し
そうな顔をして座り込んでいた。それが節子さんだった。先生と節子さんは同じアパート
の隣同士だったのだが、実際に顔を合わせたのはその時が初めてだったという。それでな
ぜ座り込んでいたかというと、もともと節子さんは体が弱く、これまでにもこういったこ
とがあったらしい。その時彼女の手助けをした先生は、これも何かの縁ということでこれ
からもできることがあれば手伝うと言った。そしてそこで節子さんが先生と同い年である
ということ、出身は千葉だが大学に通うために一人暮しをしているということ、その際に
両親(克美さんのおじいさん、おばあさん。今は両方とも故人らしい)の反対を押し切っ
てこちらに出てきたということがわかった。
 それからも先生は節子さんの体調を気遣いながら彼女と接し、節子さんもたびたび先生
の部屋に来ては家事などをしてくれるようになった。そして当然のようにいつしか二人は
恋仲となり、最終的には半同棲のような形になっていたという。さらに節子さんが大学を
卒業するころには、先生は漫画家一本で生活できるようになっていた。しかしそれでもま
だ節子さんの面倒まで見られるほどにはなっていなかったので、数年後にもっとビッグに
なってから改めてプロポーズすると、先生は節子さんに言った。ずっと待ってますと言っ
た節子さんは、大学卒業後に家事手伝いという名目で実家に戻った。
 それから数年後、先生は若くして日本国内でも権威のある漫画の賞を受賞した。宣言通
りビッグになったわけだ。そして千葉に戻っていた節子さんの所に出向いてプロポーズを
し、彼女はそれを受けた。賞を取ったおかげで社会的地位を確立した先生の結婚に反対す
る人間は周囲におらず、こうして二人は結婚した。なおその時、節子さんの体は先生と出
会った時よりも元気になっていた。
 結婚してすぐ、節子さんのおなかに赤ん坊ができた。それが克美さんだった。だが妊娠
中はともかく、出産の際、節子さんの体の弱さが災いしてかなりの難産だったらしく、当
時は母子共に危険な状態だったそうだ。しかし無事に克美さんはこの世に生を受け、出産
後は節子さんの体調も回復した。そして、一時は命さえ危ぶまれた克美さんも、その後は
すくすくと元気に成長していった。
 それから二年の月日が過ぎた。その間に先生は家を建てて、家族三人でそこへ引っ越し
た。それが今俺が住まわせてもらっているこの家だ。そして、節子さんが二人目の子供を
身ごもった。克美さんが産まれた時の危険な事態を忘れられなかった先生は、二人目を産
むのはやめた方がいいと節子さんに進言したが、彼女は反対した。その想いについに先生
も、その子供を出産することに賛成することになった。節子さんのおなかの中にいるのは
男の子で、順調に大きくなっていった。そのあまりの順調ぶりに、いつしか先生の中の不
安は薄れていったそうだ。
 そして、ついに運命の日がやって来てしまった。今から14年前の8月30日である。
子供を産むため病院へ入った節子さん。それを見守る先生と、当時三歳の克美さん。「次
に家に帰る時は、四人で」と言った節子さんだったが、四人どころかその半分になってし
まおうとは、その時誰も思ってはいなかった。節子さんも、彼女の中にいた男の子も死ん
でしまったんだ。男の子の方は、産まれた時はまだ息があったのだが、産声を上げること
もなく亡くなってしまったということだ。生きていれば先生の名前から一文字取って「光
也」と名付けられるはずだったその子は、節子さんと同じお墓に葬られた。
 最愛の妻、そして新しい家族になるはずだった命を失った先生は大いに落胆した。それ
から半年ほどは、漫画を描く気になれなかったそうだ。生活の方はそれまで描いた漫画の
印税収入などがあったので大丈夫だったが、酒浸りだった時期もあったらしい。今の先生
からはとても想像できない。そうか、それが先生のファンの間でいろいろな説が流れてい
る、「空白の半年間」の真相だったんだ。そして、つぶれかけていた先生を救ったのは、
唯一の家族となってしまった克美さんの一言だった。
「お父さん、ボクが代わりになるから。ボクが、お母さんと弟の代わりになるから!」

「思えば、あの時が初めてだったな。克美が自分のことを『ボク』と言ったのは」
 先生が思い出すように言った。そしてさらに続ける。
「あの時私は、死んだ息子の魂が克美に乗り移ったのかと思った。そしてその時、克美の
後ろに節子が見えたような気もした。それで思ったんだ。二人とも、克美の中に生きてい
るんだとね。そして同時に、私の中の二人もまた、それまで以上に大きくなっていった。
特に節子に関しては、私の愛する女性はこれまでもこれからも、彼女一人だと思うように
なった。その他に愛することができるのは、節子の血を受け継いだ克美だけだと。もちろ
ん、二人に対する『愛』は、違う意味合いだがね」
「だから先生はこれまで、再婚もせずにいたわけなんですね…」
 俺は静かに言った。先生がうなずいて言う。
「そうだ。だが実を言うと一度だけ、気持ちが揺らいだ人がいる。宮子さんだ」
 そうして先生はまた、過去の話をし始めた。

 宮子さんは節子さんよりも一つ年下で、節子さんが大学2年になった年に、同じ大学に
入学してきた。一番初めに宮子さんを見た先生は、あまりにも節子さんにそっくりだった
ので驚いたそうだ。最初は姉の体の心配もあって、一緒の部屋に住もうと思っていた宮子
さんだったが、先生の存在を知り、馬に蹴られたくないからと言って別のアパートで生活
を始めた。とは言えその部屋も先生たちのアパートとそれほど離れてはいなかったので、
ちょくちょく遊びに来ていたそうだ。そんなわけで先生は宮子さんとも仲よくなっていっ
たのだが、その時は当然、「恋人の妹」でしかなかった。
 そして月日は流れて、さまざまなことが起きた。先生と節子さんの結婚、克美さんの誕
生、節子さんの死。節子さんが亡くなられた時、宮子さんはまだ東京にいた。都内の会社
で働いていたんだ。それで男やもめになり、生きる力もなくしてしまった先生のために、
時間を作ってはいろいろと世話をしてくれたらしい。克美さんが節子さんの代わりになる
と言い出してからは、彼女に家事全般の手ほどきをしたそうだ。
 いつしか先生と宮子さん、それと克美さんは本当の家族のようになってきた。そして宮
子さんの先生に対する想いは強くなっていき、ある日とうとう彼女は先生に自分と結婚し
てくれないかと言った。先生の答えは−NO。容姿、そして性格まで亡妻にそっくりな女
性からの告白に先生はかなり迷ったそうだが、やはり自分の妻は節子さん一人ということ
で、宮子さんとの再婚には至らなかったらしい。
 その後の宮子さんはと言うと、ある日実家に帰った際、小学校時代の同級生である男性
と再会した彼女はその人から告白を受け、最終的にはその男性と結婚した。それが今の旦
那さんで、結婚を機に東京での仕事をやめた宮子さんは、千葉に戻って娘の久実花ちゃん
も含めた三人家族で暮らしているということだ。

「…と、こういうことがあったわけだ」
 それで、先生の話は一通り終わった。それを静かに聞いていた俺は、ぽつりと言った。
「いろんなことがあったんですね…。そんな話を、俺みたいな人間が聞いてしまって、な
んだか申し訳ない気持ちでいっぱいです」
「昨日も言ったが、君はもう私たちの家族みたいなものだ。家族内での隠し事は、なるべ
く少ない方がいい。だから君にも過去のことを話してもらう時が来るかもしれない」
「その時は話しますよ。もっとも、俺に話せるだけの過去や秘密なんかがあるかどうかは
わかりませんが」
「それでいい。話してくれるという姿勢が大事なんだよ。それじゃあ、私はそろそろ仕事
に取り掛かるよ」
「手伝います、先生」
「いや、今日のところはアイデア出しだからね、一人でやるべき仕事だ。手伝いが必要に
なった時は言うから、君は君のしたいことをやってなさい」
「わかりました、先生」
 こうして先生は仕事場に入った。俺は俺で、描き掛けだった自分の作品を描くために自
分の部屋に行った。作業を始めようと思ったその時、俺はふと、あることを思い出した。
「えーっと、確かこの辺りに…」
 俺は持っている漫画本の中から、十年ほど前に先生が出した短編集を探し出した。それ
に載っていた、例の「空白の半年間」の後の復帰作となる読み切り作品。その作品名は−
「MITUYA」。この作品の主人公である少年の名前だ。
「そうか、そういうことだったんだ…」
 俺は、その名前に込められた意味を理解した。そしてそれまでとは違った思いでこの作
品を読んだ後、新たな気持ちで自分の漫画を描いたのだった。
 それから数時間が過ぎた、12時半ごろ−。
「ただいまー!」
 玄関からそんな声が聞こえた。学校に行っていた克美さんが帰ってきたんだ。俺は彼女
を出迎えるべく玄関に出ていったが、先生は仕事場から出てきていなかった。
「克美さん、お帰りなさい」
「あっ、ただいま健吾くん。ごめん、ちょっと遅くなっちゃったね。お昼ご飯食べてない
よね?今から急いで作るから。お父さんもいるよね?」
「ええ、はい」
「それじゃ、三人分作るね」
 そうしてそのまま克美さんはキッチンに行き、制服の上からエプロンをつけて料理を始
めた。最初俺はその彼女をただ見ていたが、今日の先生の話を思い出すと、克美さんに対
するいとおしさが沸き上がってきた。そして気がつくと俺は、克美さんを後ろからそっと
抱きしめていた。
「ちょ、ちょっと健吾くん、どうしたの?」
 克美さんは驚いている。
「実は俺、先生から克美さんのお母さんのこと聞いたんです。それと、克美さんが家事を
やってる理由とかも…。これまでがんばってきたんだなって、思いました。同時に、これ
まで以上に克美さんがいとおしくなりました。だから俺、こんなことしちゃってるんだと
思います。俺、がんばってる克美さん好きです。でも、克美さんががんばり過ぎないよう
に、俺もがんばります。これからも、克美さんと一緒に生きていきたいです」
 俺にこんなことを言われた克美さんは、静かにこんなことを言った。
「…ありがとう。そう言われて、ボク、すごく嬉しい。一緒にがんばって行こうね、健吾
くん。もちろん、お父さんも一緒に。だけど…」
「だけど?」
「とりあえず今は、お昼ご飯作る。だから放して」
「あっ、わかりました。ごめんなさい」
 そして俺は克美さんを解放した。
「よし、それじゃ調理再開!健吾くん、もうすぐできるからお父さん呼んできて」
「わかりました」
 そう返事をして、俺は先生を呼びに行く。そう、これからはこれが俺の日常になってい
くんだ。克美さんと、先生も入れて三人で過ごしていく暮らしなんだ。そして俺たちはこ
れからも、この日常の中で生きていく。嬉しさも悲しさも共有していきながら−。

<第五章了 第六章に続く>
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