K’sストーリー第七章 二組目の始まり(3)
 喜久の学校の文化祭からちょうど一ヵ月後に、今度は俺たちの文化祭が行われる。俺は
クラスでやる喫茶店の準備や漫画部での似顔絵描きの練習などで結構忙しい日々を過ごし
ていた。文化祭当日まで残りニ週間。その週の水曜日も、俺は漫画部の部室で他の部員相
手に練習をしていた。
「うーん、こんなもんかな?どーすか部長?」
「どれどれ…ほう、以前に比べると上達したな。十分及第点だな」
「そうですか?どうもありがとうございます。で、部長が描いた俺の顔は…って、ちょっ
とちょっと部長!」
「あはは、悪い。ちょっとふざけてみた。言っとくけど、本気出せばもっとちゃんと描け
るんだからな」
「本当かなあ…。ま、本番ではお願いしますよ。部長がそんなへたくそじゃみっともない
ですから。それじゃ俺、別の人で練習します」
 そう言って俺は部長の側を離れた。が、今日出てきている部員は今のところ全員パート
ナーができてしまっていた。
「誰もいねーな…。今日はもう帰るかな?」
 俺がそうつぶやいた時、ちょうどある一組が終わった。その片方は香菜ちゃんだった。
彼女はあぶれている俺に気がつくとこちらに近づいてきた。
「センパイ、練習しないんですか?」
「いや、今まで部長相手に描いてたんだけど、終わっちゃって…」
「そうですか…。あの…まだどなたかと練習するんですか?」
「どうしようかと思ってたんだよね。あっ、そういえば香菜ちゃん描いたことってあまり
なかったよね。相手してくれる?」
「あの…もしわたしのために時間を割いてくれるというのでしたら、練習でなく、違うこ
とでご一緒していただけませんか?」
「違うこと?」
「はい。ちょっと、相談したいことがあって…」
「相談したいことって、何?」
「それは…もしよろしければ、部室でない、別の所でお話したいんですけど…」
 わざわざ場所を変えてまで相談したいことって何だろうと俺は思った。同時に、それだ
け重大な相談事なんだろうとも思った。だから俺は香菜ちゃんにこう言った。
「いいよ。それじゃ今日はもう終わりにして、二人で帰ろうか」
「いいんですか?ありがとうございます」
 こうして俺と香菜ちゃんは二人で一緒に部室を出た。その時、他の部員が何やらひそひ
そと話をしていたようだったが、気にはしなかった。
 学校を後にした俺たちは、二人で道を歩いていた。
「そういえば香菜ちゃん、今日はバイトは?」
「今日は、お休みをもらってます。たまには休みなさいって喜久さんに言われて…」
「そっか。喜久がそういう気持ちもわかるよ。文化祭が近いからそれまで平日はずっと休
んでもいいって言われてるのに、ほとんど毎日部活の後に働いてるんだろう?」
「は、はい、そうです」
「あまり無理はしないでね。で、それはそれとして相談事だったよね。歩きながらの話も
何だから、どこか落ち着いて話ができる場所に行こうか」
「はい。でも、どこに行きますか?」
「“鬼賀屋”…じゃこの時間ちょっと騒がしいか。それに、せっかく休みもらったんだか
ら今日ぐらいはあの店と距離置きたいよね。あっ、あそこの喫茶店でいい?」
「はい、いいです」
 というわけで喫茶店に入る俺たち。とりあえずコーヒーを頼み、その後香菜ちゃんに話
しかけた。
「ここなら俺たちの話聞いてる人もいないし、いいよね。それで、相談事って?」
「はい、あの、実は…」
 そう言って香菜ちゃんが話を始め…るかと思いきや、そこで彼女は言葉を止めてしまっ
た。
「どうしたの香菜ちゃん?」
「いえ、その、やっぱり恥ずかしくて…」
 恥ずかしい?この娘はいったい俺に何の話をしようとしてるんだ?そして少しの間もじ
もじしていた香菜ちゃんだったが、ようやく再度口を開いた。
「えっと…恥ずかしいですけど、せっかくわたしのために時間を作ってくれているセンパ
イにも悪いので、ちゃんと話します。実はわたし、好きな人ができたんです」
「えっ、そうなの?」
 香菜ちゃんの言葉を聞いた俺は、少し救われた気がした。と言うのも、俺は克美さんと
付き合う前にこの娘から告白(のような物)を受けていて、俺はそれを振ったことがある
んだ。そのせいかはわからないけど、以来香菜ちゃんは恋愛に対して少し臆病になり、し
ばらく人を好きになることを控えていたような節があったんだ。その香菜ちゃんがこんな
ことを言うということは、ようやく俺の呪縛から解き放たれたと言っていいだろう。もっ
とも、告白を受けてから今までの間も、香菜ちゃんとは友達として付き合ってきてたんだ
けど。
「ふーん、そうか。とうとう香菜ちゃんにも好きな人がねえ…。でも、そんな相談だった
ら、俺なんかじゃなくて仁にした方がよかったんじゃないの?恋愛に関しては、俺なんか
よりずっと物知ってるぜ。あっ、もしかして」
「な、何ですか?」
「香菜ちゃんが好きになったのって、仁だったりして。本人には相談できないから、俺に
話したとか」
「ち、違います。確かに間さんもいい人ですけど、恋愛の対象には、少し…。あの人に相
談しないのは、話すと、それに乗る代わりにデートしてくれないかとか言われそうで…」
「ははっ、あいつなら、確かにそーゆーこと言いそうだわ」
 俺はそう言って笑ったが、その俺に香菜ちゃんが続けてこんなことを言った。
「それに、東センパイに相談した方がいいと思った理由が、もう一つあるんです。実はわ
たしが好きになった人が、センパイの知っている人で…」
「俺が知ってる人間?仁じゃないんだろう?仁以外で俺と香菜ちゃんの共通の知り合いと
いうと…喜久の親父さん!」
「…怒りますよ?」
 静かに放たれたその香菜ちゃんの言葉は、静かな分少し怖かった。
「ご、ごめん、冗談。だけど、あと考えられる共通の知人っていうと、漫画部の部員ぐら
いしか…」
「そ、そうです。漫画部の人なんです」
「えっ、本当に?誰なの?」
 俺がこう聞くと、香菜ちゃんは下を向いて、さっきよりも少し小さな声で言った。
「あの…やな…ぬまくん…です…」
「柳沼?君と同じ一年の柳沼新平?あ、そーいやさっきも似顔絵を描き合ってたよね?」
「は、はい。実は同じ中学校だったので、時々それなりにお話はするんですけど…」
「そうか、そーいやあいつも俺の後輩だったんだっけ。でも、それなりに話かあ。その言
い種だと、全然恋の話にはなってないみたいだね」
「はい、まるで気持ちは伝えてませんし、それを匂わせるようなことも、一言も言ってま
せんから…」
「なるほど。じゃあ柳沼は君の気持ちに全然気づいてないってことだね」
「たぶんそうだと思います。柳沼くん、あまり感情を表に出さないので…」
「そうだなあ、俺もあいつが気持ちを剥き出しにしてるところとか、見たことないもんな
あ。クール過ぎるんだよ。だけどあいつ、少し言葉使いがおかしくないか?必要以上に丁
寧過ぎる話し方なんだよな。メガネだし」
「メガネと話し方には関係ないと思うんですけど…」
「そうかな?それで、香菜ちゃんはどうするつもり?柳沼に告白するの?」
「そうしたいのは山々なんですけれども、もし彼にもうすでに付き合っている女性がいた
り、そうでなくても好きな人がいたりしたらと思うと、勇気が持てなくて…」
 そう言うと香菜ちゃんは、話の間に上がっていた顔をまた下に向けて小さくため息をつ
いた。そうだ、もともとこの娘はかなり内気な性格なんだ。その香菜ちゃんが男に告白を
するなんて、ものすごく勇気がいることに違いない。数ヶ月前、俺に自分の気持ちを話し
た時よりももっともっと大きな勇気が…。そして俺は思った。香菜ちゃんの力になってあ
げたいと。振った罪滅ぼしなんて気持ちはさらさらない。そんなんじゃなくて、香菜ちゃ
んは大切な後輩…と言うか友達だから。でも、どうすれば力になってあげられるだろう?
俺がそうと思っていると、香菜ちゃんが言ってきた。
「あの、それで、お願いがあるんですけど…」
「お願い?俺に?いいよ、できることなら協力するよ」
「東センパイ、柳沼くんにそういった人がいるかどうかを聞いてもらえませんか?同じ男
性同士である分、本音を聞きだせる可能性が高いと思うんです」
「うーん、それは確かにそうかもしれないけど、俺もあいつとはそれほど親しくはないし
なあ…」
「そう…ですか…」
「だけど、香菜ちゃんの頼みだし、部活中にそれとなく聞いてみるよ。今なら学年が違く
ても、似顔絵描きの練習で接触するのもそう難しくないだろうし」
 俺がそう言うと、香菜ちゃんの顔が明るくなった。
「本当ですか?センパイ、ありがとうございます!」
「いいよ香菜ちゃん、お礼なんて。まだ聞き出せるかどうかもわからないのに。あっ、そ
うだ。一つだけ聞かせてくれる?香菜ちゃんは、どうして柳沼のことを好きになったの?
あいつのどこがいいと思ったの?」
 最初にこの話が出た時から気になっていたことを、俺は香菜ちゃんに聞いてみた。する
と彼女は、少し恥ずかしそうにこう答えた。
「あの…彼、クールで少し近寄りがたい雰囲気がありますよね?でもそれは違ってて、柳
沼くんには内面に秘めた優しさあるとわたしは感じるんです。半年間一緒に部活をやって
きてそう思うようになりました。わたしは彼のそんな所を好きになったんだと思います」
 最初は恥ずかしそうに話していた香菜ちゃんだったが、だんだんとはっきりとした口調
になってきていた。自分が好きになった柳沼のいい所を俺に話せるのを、嬉しく思ってい
るように。その彼女を見た俺は、この娘は本当に柳沼のことが好きなんだなと思った。
「香菜ちゃんに限って顔で選ぶわけないと思ってたけど、やっぱりそうだったね。OK、
今の答えで十分だよ。できるかどうかわからないけど、やってみるね」
「あ、ありがとうございますセンパイ!」
 そう言って香菜ちゃんは俺に大きく頭を下げた。この一生懸命な娘のために、少しでも
力になってあげようと、俺は思ったのだった。

 香菜ちゃんから柳沼のことを相談された翌日の放課後。今日もまた俺は漫画部の部室に
行こうとしていたのだが、その途中で克美さんと会った。彼女もお料理部の部室に行くと
言うので、一緒に部室棟へ向かった。そしてその時、克美さんが俺に言ってきた。
「ねーねー健吾くん、今日の健吾くんって、どこか変だよ?」
「えっ、そ、そうですか?」
「うん。正確に言えば、昨日家に帰ってきた時から少しおかしかったな。朝家出る時も同
じで、今もそう。部室に近づくにつれてだんだん顔が険しくなってきてる気がする…」
「そ、そんなになっちゃってますか?まずいまずい、気をつけないと…」
 そう言って俺は無理に自分の顔を笑顔にしてみた。
「うん、大丈夫大丈夫。で、なんでそんな顔になっちゃってるの?何か心配事?」
「ええ、実は香菜ちゃんが…」
 ここまで言いかけて俺は言葉を止めた。香菜ちゃんに好きな男ができたということを、
ここで克美さんに話してしまってもいいのだろうか?まだ時期尚早なんじゃないかと、俺
は思ったんだ。そして、言葉を止めた俺を不可解に思った克美さんが聞いてくる。
「ねー健吾くん、香菜ちゃんがどうしたの?彼女に何があったの?」
「えーと…すみません、今はとりあえず内緒でいいですか?後で話しますんで…」
「えーっ、つまんなーい!…あっ」
 遠くの廊下の方に目をやった克美さんがそんな声を出した。そして続けてこう言う。
「健吾くん、話さなくてもいいよ。本人に聞くから。おーい、香菜ちゃーん!」
「えっ?香菜ちゃん?」
 手を振る克美さんの目線の先には、確かに香菜ちゃんがいた。とある部の部室−もちろ
ん、彼女や俺が所属する漫画部の部室−から出てきた彼女は、克美さんの声に気づき、こ
ちらに向かってきた。
「こんにちは、克美さん、センパイ。これから部活ですか?」
「ああ、そうだよ。香菜ちゃんはどうしたの?見たところ、漫画部の部室から出てきたみ
たいな感じ…」
「ねーねー香菜ちゃん、健吾くんが香菜ちゃんのことで心配事があるみたいなんだけど、
何か大変なことでもあったの?」
 俺の言葉をさえぎって、克美さんがたずねた。それを聞いた香菜ちゃんが俺に疑いのま
なざしを向ける。
「…センパイ、克美さんにあのこと話しちゃったんですか?」
「ああ、いやいや、詳しいことは話してないよ。ただ、香菜ちゃんに相談を持ちかけられ
たって言っただけで、その内容までは…」
 俺は必死に弁明した。こんなことで香菜ちゃんの信頼を下げたくはない。
「…そうですか。そうですよね、センパイは、そんな口の軽い人じゃありませんもんね」
 香菜ちゃんは俺の言葉を信じてくれたようだ。どうやら俺はこの娘にかなり信頼されて
いるみたいだが、だからこそ、さっきポロっと克美さんに話しそうになってしまったこと
に対して罪悪感を覚えた。
「それで、香菜ちゃんは健吾くんに何を相談したの?」
 克美さんが言ってきた。結構しつこいなこの人も。そしてこの質問に、香菜ちゃんはこ
う答えた。
「…すみません克美さん、今は内緒にしておきたいんですけど…」
「えーっ、それじゃさっきの健吾くんと一緒じゃなーい!…でも、健吾くんも香菜ちゃん
も、理由もなく意地悪で内緒にする人じゃないもんね。今はまだ話していい時じゃないっ
てことだよね。わかった、今日はもう聞かないよ。その代わり、後で話聞かせてよね!」
「わかりました、後で必ず…」
「ところで香菜ちゃん、君、漫画部の部室から出てきたみたいだけど…」
「あっ、そうなんです。本当は部活に出るつもりだったんですけど、喜久さんから電話が
あって、帰るのが遅くなりそうだから早めにお店に出てきてくれないかって…。だからわ
たし、今日はもうそちらに行きます」
「そうなんだ。気をつけてね」
「はい。センパイ、克美さん、さようなら」
 そうして走り去って行く香菜ちゃんの背中を、俺と克美さんは見送った。
「大変だよねえ、香菜ちゃんも」
「そうですね。それじゃ、俺はここで」
「うん。バイバイ。次は家で、ね」
 こうして克美さんと別れた俺は漫画部の部室に入った。が、なんと中には一人の人間し
かいなかった。しかもそれは、柳沼だった。柳沼が入ってきた俺に気がついて言う。
「東さん、こんにちは。あなたは出てこられたのでございますですね」
「あ、ああ。いったいどうしたんだこの状況は?なんでおまえしかいないんだ?」
「たまたま他の部員が出てきていらっしゃらない、それだけのことではないのですか。も
ともと、自由な日、自由な時間に活動できるというのがこの部の特徴であるわけでござい
ますですし」
「それはそうだけど…だからって俺とおまえ以外出てこないなんてことがあるのか?」
「現実にそのようになっているではございませんか。偶然に偶然が重なれば、起こりえな
い話ではございません。それに、実際にはもう一人、桂さんがいらっしゃいました」
 柳沼がそう言った。確かにこいつの言う通りではあるんだが、もう少し別の言い方がな
いのかなあ…。それはともかく、今ここには俺と柳沼の二人しかいないわけだし、こいつ
に例のことを聞くチャンスだと思った。それでさりげなく質問をしようとしたのだが、そ
の前に柳沼に言葉を奪われた。
「それで東さん、僕とあなたしかいないこの状況で、部活をいたしますか?似顔絵描きの
練習をするというのでございましたら、お相手をしてさしあげますが」
「そ、そうか?それじゃ頼むかな。おまえも俺の顔、描く?」
「そうさせていただきますです。それでは、時間がもったいありませんし、早速始めるこ
とにいたしましょう」
「じゃあ、せっかくだからいろんな角度から、いろんな表情描いてみようぜ」
 こうして俺たちはお互いの顔を描き始めた。途中で例の話をするチャンスをうかがって
いたが、あまりにも真剣な柳沼の顔に、余計な話をするのがためらわれ、必要なこと以外
は口にできない俺がいた。そして、練習を始めてから一時間ほどして柳沼が言った。
「いろいろな表情をするとは言いましても、やはり二人では限界がありますね。これ以上
続けましても上達の効果は薄いと考えられますので、僕はもう終わりにしたいと思います
が、よろしいでしょうか?」
「あっ、そ、そうか?それじゃ俺も終わるよ。一人になったら、それこそ練習なんてでき
ないしな。それで柳沼、おまえ、このまま帰るの?」
「ええ、家に帰りますです。僕自身の夕食を作ります必要がございますので」
「夕食?おまえん家って、両親共働きとかなのか?それでおまえが家族全員の分まで作っ
てるのか?」
「僕自身の、と言いましたのですが、聞こえませんでしたか?本日は他に家で食べる人間
がおりませんので、自分の分を作るのでございます」
 なんだかムッとさせるような柳沼の言い方だったが、それはともかく、これでつぶれか
けたチャンスが再度やってきたと俺は思った。
「じゃあさ、別に家で食べなくてもいいわけか?」
「一応、そういうことにはなりますね。もっとも、外食となりますと余計な出費になりま
すので、できることならば控えたいところではございますが…」
「それじゃあ、俺がおごる!だから、一緒に俺の行きつけのラーメン屋行かないか?」
 俺がこう言うと、柳沼はきょとんとした顔になった。
「おごる?あなたが?僕に?こう言いますのも何ですけれども、僕とあなたはそれほどの
親密な仲ではないのではありませんか?」
「まあ、そりゃそうなんだけどさ…俺、おまえとしたい話があるんだよ」
「話…でございますですか?それならば、今この場でされても…」
「割りと込み入った話になりそうなんだ。だからラーメンでも食いながらゆっくりと…」
 俺がこう言うと、ようやく柳沼が折れてくれた。
「わかりました。そこまでおっしゃるのならば、お付き合いいたしましょう」
「おお、サンキュー。それじゃさっそく行こうぜ」
 こうして、俺はどうにか柳沼を“鬼賀屋”へ誘い出すことができた。まず学校から駅ま
で歩き、そこから電車に乗った俺たち。乗車中、終始無言というわけにもいかないし、店
に到着して本人がいるすぐ隣でいきなり香菜ちゃんの話に入るのも何だなと思ったので、
俺はストレートにこう切り出してみた。
「あのさ柳沼、おまえ、付き合ってる女の子とかいるか?」
「は?いきなり何の話でございますか?」
「いや、ちょっと確認しておきたくてさ…。どうなんだ?」
「現在、そのような女性は存在しておりません」
「そっか。それじゃあ、好きな娘は?」
「先ほどからいったい何なのですか?あなたにそのようなことをお話しして、僕にいった
い何の得があるというのですか?」
 こう言われた俺は、少しカチンと来た。なので思わずこう言い返した。
「聞いてるのは俺だ!質問に質問で返すんじゃない!うちの学校には、疑問文には疑問文
で対応しろって教える先生はいねえぞ!」
 いきなり大きな声を出されて柳沼は−。
「…何を突然大声を出しているのですか?電車内で周囲に人がいらっしゃいますが、恥ず
かしくないのですか?」
 そう冷静に言いやがった。確かに電車内の人たちが俺たち…と言うより俺に視線を送っ
ている。顔から火が出る思いだった。
「…すまない。ちょっと興奮しちまった」
「わかっていただければよろしいのです。それで…」
 柳沼が続ける。
「先ほどのあなたの質問でございますが、それにお答えしてみましても、僕にとって得な
ことがあるか否かは不明です。しかし、少なくとも損はしないと僕は判断いたしました」
「なんか、相変わらず回りくどい言い方するなおまえ…。よーするに、答えてくれるって
ことか?」
「簡単に言いますと、そうなりますです」
 だったら最初からそう言えよと思ったが、とりあえずその言葉は口にしないでもう一度
さっきの質問をし直してみた。
「で、どうなんだ?おまえ、好きな女の子はいるのか?」
「おりません」
 さっきまでさんざん回りくどかったのに、肝心の回答は一言かよ…。それはともかく、
こいつに彼女とか好きな娘とかがいないってのは、香菜ちゃんにとってラッキーだ。が、
ここで俺の頭の中にある不安が浮かんだ。なのでそれについても柳沼に聞いてみることに
した。
「あのさあ柳沼、もう一個確認していいか?」
「何でございましょうか?」
「おまえ、女の子に興味あるよな?女嫌いだったりしないよな?」
 俺にこう聞かれた柳沼は、これまでと変わらない冷静な口調でこう答えた。
「興味があるのかないのかと聞かれましたらば、ありますでございますです。ですが、ま
だ僕は高校1年生でありますし、そう無理をしてまで恋人などという物を作る必要もない
と思っております。もしも僕のような変わった人間を好いております奇特な女性が存在い
たしましたならば、お会いしてみてもよろしいかと思われます」
「おまえ、自分のこと変わった人間だとか、そんな自分を好きになる娘は奇特だとか言う
なよ…。その娘がかわいそうじゃないか」
 俺が言うと、柳沼がこう返す。
「かわいそう…でございますですか?確かにそのような方が実在したとなれば、かわいそ
うかもしれません。しかし僕は自分という物をよくわかっておりますです。このような自
分を好いてくれますような方はいらっしゃらないと思っておりますので」
「いるんだよそれが!」
 俺は思わず言ってしまった。どうせ後で話すつもりだったんだけど、少し早かったか?
で、その俺の言葉を聞いた柳沼が言う。
「それは…本当なのでございますですか?」
 その言葉からは、多少の動揺が見られた。よし、こうなったらこのまま話してやる。
「本当だよ!本当にいるんだよ!今から行くラーメン屋に、その娘がいる」
「…なるほど、そういうことでしたか。それで僕のことをその店に連れていこうとしたの
でございますですね?」
「そ、そうなんだ実は」
「よくわかりましたです。このままあなたにご一緒いたします。どのような女性がこの僕
のことを好きであるのか、興味が出てまいりました。おっと、この場ではおっしゃらない
でください東さん。その店にて、自分で確認いたしますので」
 柳沼が言ったが、これって香菜ちゃんにとっていい方向に進んでいるんだろうか?単純
な興味だけだったら、彼女がかわいそうだし…。いずれにせよ、後は柳沼が自分のことを
好きなのが香菜ちゃんだと知ってどう思うかだ。そんなことを考えながら、俺は電車に揺
られていた。

 いつも乗り降りしている西木本駅を出た俺と柳沼は、そのまま“鬼賀屋”ヘと歩いた。
駅からそう遠くはない。店についていつものように戸を開けると、いつものように喜久が
出迎えてくれた。
「あら、いらっしゃい健くん」
「ちゃす。二人なんだけど、席空いてる?」
「ええ、あそこ、空いてるわ。二人って、仁くん…じゃないわね。誰?」
「部活の後輩。それと、香菜ちゃんはいるの?」
「いるけど…彼女に用事なの?」
「いや、いるのが確認できればいいんだ。んじゃ柳沼、あそこ座ろうぜ」
「はい。了承いたしました」
 というわけでテーブルにつく俺たち。喜久が水を持ってきてくれたのだが、その後に、
こんな声がした。
「や、や、柳沼くん!?どうして柳沼くんがこのお店に!?」
 その声の主はもちろん香菜ちゃんだった。ものすごく驚いた顔をしている。
「やあ香菜ちゃん、お仕事ご苦労様。俺が連れてきたんだ、こいつ」
「桂さんではございませんか。なぜあなたがこのお店に?…ああ、アルバイトでございま
すですか?」
 柳沼が言うと、香菜ちゃんは−。
「は、は、はい、そうです。柳沼くんもセンパイも、ごゆっくりどうぞ」
 そうとだけ言って、香菜ちゃん小走りに店の奥の方に行ってしまった。いつもの彼女ら
しからぬ慌て振りが見られた。まあ、自分が好きな男と思いもよらない場所で顔を合わせ
たのだから無理もないか。そしてそんな香菜ちゃんの様子を見た喜久が言った。
「香菜ちゃん、いったいどうしたの?そもそも彼女とそこの彼って知り合いなの?…って
そうか、健くんの部活の後輩ってことは、香菜ちゃんと面識あるのも当然よね」
「ああ、そういうことだ。それより喜久、俺、チャーシューメンな。柳沼は?」
「それでは僕は、塩ラーメンを注文させていただきますです」
「はーい、わかったわ。それじゃ二人とも、ちょっと待っててね」
 そしてテーブルを離れる喜久。その後で、柳沼が俺に言ってきた。
「東さん、もしかしてとは思いますが、僕のことを好きな女性とは、桂さんなのでござい
ますか?」
「ああ、よくわかったな。…つーか、あの彼女の態度を見てわからない方がおかしいか」
「ですが、彼女は東さん、あなたとお付き合いしていらっしゃるのではないのですか?漫
画部の中でも、そのような噂が立っておりますし」
「えっ、そうなのか?やっぱりそう見えるのか…。だけど違うぜ。俺には別の恋人がいる
し、香菜ちゃんはおまえが好きなんだ」
「ならばお二人とも、誤解を招くような行動はしないでいただきたいものですね。特に東
さん、恋人がいるというのならば、その方に対して、桂さんと親しくして悪いことをして
いるとは感じないですか?」
「悪いことって…彼女も香菜ちゃんのことは知ってるし、友達として付き合うんだったら
全然OKって言われてるし…」
「なるほど。あなた方の中でそのような割り切りができているのでしたら問題はございま
せんね。それはともかく、桂さんが僕のことを好きであるというのは、本当なのでござい
ますか?」
「だから本当だって。さっきのあの娘の慌て方見たろう?こんな所で好きなおまえの顔を
見たからあんなになっちゃったんだよ」
「む…むう…」
 柳沼が低い声を出した。顔もこれまでのクールな鉄面皮から、少し崩れている。眉をひ
そめて、困ったような顔になっていた。
「何だよ柳沼、香菜ちゃんに好かれていることが、そんなに迷惑か?」
「いえ、そうではないのですが、本当にこの僕のような男を好きになっている女性が実在
したとは…」
「だから電車の中でそーゆー娘がいるって言ったろう。嘘だと思ってたのか?」
「大変申し訳ないのですが、実は…」
「おいおい…。まあいい。とにかくそんな女の子が実在すること、そしてそれが香菜ちゃ
んだってことはこれではっきりしたんだからな。後はおまえの気持ち次第だろう」
「は、はい…」
「あ…あの…」
「うわあああっ!?」
 不意に声がしたので俺たち二人は驚いてしまった。特に柳沼は、これまでのこいつだっ
たら絶対に出さないような声を出して驚いた。
「か、香菜ちゃん!ど、どうしたの?」
「どうしたのと言われても…お二人のラーメンができたので持ってきたんですが…」
「あ、ああ、そうだったのでございますか。ありがとうございますです」
「いえ、お仕事ですし…。それではお二人とも、ごゆっくりお召し上がりください」
 そう言って別のテーブルに向かおうとする香菜ちゃんを、俺は呼び止めた。
「あっ、香菜ちゃん、さっきの俺と柳沼の話、聞いてた?」
「いえ、聞いていませんでしたけど…」
「そ、そう。それならいいんだ。ごめんね、呼び止めちゃって」
「いえ、平気です。では、仕事に戻りますね」
 そして香菜ちゃんは仕事に戻った。俺と柳沼の前には、でき立てのラーメン。
「…僕の気持ちの整理は、後でいたします。このラーメンが伸びてしまっては、作ってく
ださった方に申し訳ありません」
「だな。まずは食うか」
 こうして俺たちはラーメンを食べ始めたのだが、それから少しして−。
(バタンッ!)
 そんな大きな音がした。まるで何かが倒れたような音だった。店の中の人の視線が音の
した方を向いたので俺と柳沼も同じようにそちらに視線をやると、なんと、香菜ちゃんが
倒れていた。
「か、香菜ちゃん!?」
 俺は席を立つと彼女に駆け寄り、そして抱きかかえた。
「おい、香菜ちゃん!香菜ちゃん!」
「セ…センパイ…」
 意識はあるが、なんだか苦しそうだ。俺のすぐ側で彼女を見ている喜久が聞いてくる。
「健くん、香菜ちゃんいったいどうしたの?」
「そんなこと、俺が知るか!とにかく医者だ!おい、柳沼!」
「は、はい」
 俺は想定外の出来事に顔を青くしている柳沼に言った。
「俺が香菜ちゃんをおぶって近くの医者まで連れてく。おまえは俺のバッグ持ってついて
こい!」
「か、かしこまりました」
「頼むぞ。喜久、今日の分のラーメン代は後で払いに来るからツケにしておいてくれ」
「え、ええ。健くん、香菜ちゃんのことお願いね」
「わかってる。それじゃ!」
 そして俺は、香菜ちゃんをおんぶして店を飛び出した。

 倒れた香菜ちゃんを背負った俺が向かった先は、“鬼賀屋”から最寄りの医者である間
医院。そう、間という名前からわかるように、仁の親父さんがやっている。そしてその医
院の前まで来た時、偶然にも仁と会った。
「ん?どうした健吾?こんな時間に俺に用か?悪いけど俺、これからバイトだから…」
「違うよ!おまえに用があるんじゃない!親父さんに用事だ!」
「親父に?どこかケガとか病気とか…ああん!?」
 急に仁が大きな声を出した。俺の背中にいる香菜ちゃんに気がついたからだ。
「おいおいおいおい、どうしたんだよ彼女!」
「バイト中、いきなりぶっ倒れた。だから診てもらうんだ」
「倒れたぁ?いったいなんでよ?」
「医学的知識のありません僕たちにそのようなことはわかりません。それよりももしかす
ると一刻を争う事態かもしれないのです。あなたと無駄に話をしている暇はありません」
「あ?誰だおまえ?初対面の人間に対する口の利き方じゃねえぞそれ!」
「やめろよ仁!柳沼の言い方は悪かったかもしれないけど、間違っちゃいない。早く診て
もらった方がいいんだ。そこをどいてくれ」
「わかったよ。じゃあ俺行くけど、後で詳しい話聞かせてくれよな」
 そう言って仁は行ってしまった。その後俺は医院に入って、先生−仁の親父さんに香菜
ちゃんを診察してもらった。もちろんその間俺と柳沼は待合室で診察が終わるのを待って
いたのだが、しばらくして、診察室から先生が出てきた。その姿を見た俺は、飛び掛かる
ように先生に聞いた。
「先生、香菜ちゃんの容体は!?」
「ただの過労だ。今は落ち着いて眠っているし、安静にしていれば治るものだから、そん
なに心配することはない」
「そうでございますか…。ひとまずは、一安心といったところでございますね」
 柳沼が言ったが、俺も同じ気持ちだった。そして俺はさらにたずねた。
「あの、先生。原因は本当に過労だけなんですか?」
「ん?それはどういう意味かな?」
「例えば、疲れているところに極度の緊張状態が来て、それで倒れたとか…」
「いや、そのような兆候は見られなかったな。何か心当たりでもあるのかい?」
「えっと…あると言えばあり…ないと言えばなし…」
 そんな俺の回答に、先生は不思議そうな顔をした。
「うーん…まあいい。そろそろ目を覚ますころだから、顔を見せていったらどうだい?」
「桂さんにお会いしても大丈夫なのですか?」
「本来たいした病気でもないし、問題はない。ただし、興奮はさせないようにな」
「わかりました。それじゃあ…」
 こうして俺たちは、診察室に入った。先生の言った通り、香菜ちゃんは目を覚ましてい
て、上半身を起こしていた。その彼女に俺たちは声をかける。
「大丈夫、香菜ちゃん?」
「一見いたしますと、もう問題はなさそうに見えますが…」
「センパイ…柳沼くん…ごめんなさい…」
 急に香菜ちゃんが謝った。
「そんな、香菜ちゃんが謝る必要はないってば!いきなりあの店に柳沼を連れていった俺
のせいなんだから!」
「違うんです、そうじゃないんです…」
「違う、とは、どのような意味でございますか?」
 柳沼が聞くと、香菜ちゃんはぽつりぽつりと話し始めた。
「…わたし、演劇部のお友達に、文化祭の劇用の衣装を作ってくれないかって頼まれたん
です。そんな風に人にお願いされること、今までになかったから、喜んで引き受けたんで
す。でも、上手に作れなくて、ここ数日、夜遅くまで起きてて…。その上学校の授業、漫
画部での似顔絵の練習、それにバイトもあって…」
「そ、そんなにやってたら体持たないのも当たり前だよ!ただでさえ香菜ちゃん体力ない
のに…」
「ご、ごめんなさい…」
 俺の声に謝る香菜ちゃん。それを見た柳沼が言う。
「東さん、大きな声を出さないでください。興奮させないようにと先生に言われているで
はありませんか」
「わ、悪い。つい…」
「まあ、桂さんのことを心配しての言葉だということは理解できますが…。それに、おっ
しゃっていること自体に間違いはございませんし」
 そして次に柳沼は、香菜ちゃんに言った。
「桂さん、作成を依頼されています衣装の進行状況はいかがなのですか?」
「えっと…あと三日もあればできあがると思うんですけど…」
「それではその三日間は、そちらに専念したらいかがですか?それぐらいの日数漫画部の
方を休んだからと言って、もともと熱心に活動している桂さんのことです、さしたる問題
はないでしょう」
「そうだよ香菜ちゃん。君、もう十分似顔絵描くのうまいんだからさ。それに不安があっ
たら部活の時間以外でも俺が練習に付き合ってあげるから」
「そう…ですね…。わかりました、そうします。お二人とも、お心遣い、ありがとうござ
います」
 香菜ちゃんが礼を言う。柳沼や俺の言葉を素直に聞いてくれてよかったと俺は思った。
 香菜ちゃんの調子がいくらか戻ったので、俺たち三人は間医院を後にした。そして香菜
ちゃんを一人で家に帰すわけにもいかないので、また俺が彼女を背中におぶっていくこと
にした。当然、柳沼も俺の荷物持ちという形で一緒に来ている。
「あの…センパイ、大丈夫ですか?」
「ああ、平気平気。女の子をおんぶするのは、克美さんで慣れてるから」
「だけど、わたしと克美さんじゃ、全然違うし…」
「まあ、確かに違うね。背中に感じる感触が…」
「…わたしは、体重の話を言ったんですけど…克美さんより相当重いって意味で…」
 その香菜ちゃんの言葉は、かなり冷たい言い方だった。まずい、こいつはまずい。そし
てさらに柳沼が追い討ちをかける。
「東さん、女性に対してなんということを言うのですか。あなたにはデリカシーという物
がないのですか?それとも、四六時中そのようなことを考えているいやらしい人間なので
すかあなたは?」
「つ、ついポロっと言っちゃっただけだよ!そこまで非難することないだろう!それじゃ
あ、そんないやらしい俺に代わって、おまえが香菜ちゃんおんぶするか?」
「えっ、いや、それは…」
 柳沼が思いっきり動揺し始めた。そして、こんなことを言った。
「…正直言いますと、実は家族以外の女性に触れたことが数えるほどしかありません…」
「そうなのか?ま、いいんじゃないのか?一生そんな男だったら困るけどな」
「ありがとうございます…」
 その柳沼の言葉を最後に、俺たち三人はみんな黙ってしまった。そして歩いているうち
に香菜ちゃんの家が近づいてきた。
「あれ、もう結構できあがってるんだな」
 俺はやや遠くに見える、香菜ちゃんの家の敷地内にある建設中の建物を見て言った。す
ると柳沼が質問をする。
「東さんは、あの建物に覚えがあるのですか?」
「あの建物って言うか、前にあそこに建ってたアパートに住んでたんだ俺。車が突っ込ん
で住めなくなっちゃったから、別の所に引っ越したけど」
「あれからおよそ三ヶ月ですね…。そう言えば、センパイが引越して以来、ここに来るの
は初めてでしたね」
「ああ、そういやそうだったね。おかげで君とは疎遠に…なってないな、全然」
「そうですね、漫画部や“鬼賀屋”でよくお会いしていますし…。あっ、センパイ」
「何?」
「ここで…降ろしていただけませんか?男の人におんぶされているのを家族に見られたら
恥ずかしいので…」
「ああ、そうか。でも大丈夫?一人で歩ける?」
「ヘ、平気です。ですから、ここで…」
「わかったよ香菜ちゃん。それじゃあ…」
 そして俺は背中から香菜ちゃんを降ろした。香菜ちゃんは自分の足できちんと立ってい
るので、もう問題はなさそうだ。
「じゃあ、俺と柳沼はここで帰った方がいいのかな?」
「その方がよろしいかもしれませんね。桂さんの家はもうすぐそこですし、僕たちがつい
ていく必要もないでしょう」
「だな。それじゃ、俺たちはこれで…」
 そう俺が言いかけた時、後ろから声がした。
「あら、健くんたちじゃないの。あなたたちも今だったの?」
 喜久だった。彼女は香菜ちゃんにたずねる。
「香菜ちゃん、大丈夫なの?」
「はい、ひとまずもう平気です。ご心配をおかけしました」
 そう言って喜久に頭を下げる香菜ちゃん。ここで俺は喜久に聞いてみた。
「で、喜久。君はなんでここに来たの?香菜ちゃんが心配になったの?」
「それもあるけど、香菜ちゃん、わたしの家に制服とかばん置きっ放しだったでしょう?
だから持ってきたの」
「あっ、そういえば…。わざわざすみません喜久さん」
「いいのよ。確かに健くんの言った通り、様子を見にきたいってのもあったし。ちゃんと
してるし、もう平気みたいね。それじゃあ、はいこれ」
 そう言って喜久が香菜ちゃんに制服を渡したのだが、そこで香菜ちゃんがあることに気
づいた。
「あら?わたし、着替えた時にここのファスナー締めたはずなんですけど…」
 この香菜ちゃんの言葉にピンと来た俺は、喜久にこう聞いてみた。
「…喜久、着てみた?」
「あはは、ばれちゃった?もしかしたら着ることになってたかもしれないセーラー服見て
たら着たくなっちゃって、つい…。ごめんね香菜ちゃん」
「わたしは別にいいですけど…きつくありませんでした?」
「確かにいろいろときつかったわね。香菜ちゃんとわたし、結構サイズ違うし」
 そりゃそうだ。身長は10センチ近く違うし、胸やお尻なんかも喜久の方が圧倒的…と
までは行かなくてもかなり大きい。ウエストだけは香菜ちゃんの方が太いか。香菜ちゃん
は手渡された制服を確認して、言った。
「破れたり壊れたりしてる所はないみたいだし大丈夫ですね…。喜久さん、後で喜久さん
の学校の制服も着させてもらっていいですか?どうせぶかぶかでしょうけど…」
「え、ええ、いいわよ。ところで健くん」
 喜久が俺に視線を向けた。
「いくらよくなったからって、倒れた女の子を医者からここまで歩かせたの?」
「そ、それは誤解だ喜久。俺はついさっきまで香菜ちゃんをおんぶしてきたんだぜ。なあ
柳沼?」
「その通りです。桂さんの希望で背中から降ろしたところに、あなたが現れたのです」
「あら、そうだったの?それならいいわ。それじゃ香菜ちゃん、無理はしちゃダメよ」
「ありがとうございます。それではみなさん、これで失礼します。あの…柳沼くん…」
 香菜ちゃんの声に、柳沼が反応した。
「はい、何でございましょうか?」
「今日は、こんなことに巻き込んでしまってごめんなさい」
「構いませんよ。僕のような男でも、少しはお役に立てたようですし。では、しっかりお
休みくださいませ」
「ありがとう…。では、東センパイと喜久さん、また…」
「ああ。もう家まで距離ないけど、気をつけて」
「お店の方は心配しなくていいからね」
 そうして香菜ちゃんは家の方に歩いていった。ふらついてもいないのでとりあえず安心
した。
「それでは、僕もこの辺りで失礼させていただきたいと思いますです」
 柳沼が言った。
「そうか。あのさ、柳沼…香菜ちゃんとかぶるけど…今日は、悪かったな。俺があの店に
誘ったばっかりに…」
「それでは僕の方も桂さんへの返事と同じになりますが、大丈夫でございます。それと、
例の件は一考してみますので。では」
 そう俺たちに頭を下げて、柳沼も帰っていった。それでここには俺と喜久が残った。
「さて、と…それじゃあ俺も帰るか。喜久、また今度な」
 そう言って俺がその場を去ろうとすると、喜久がこんなことを言ってきた。
「ちょっと待って健くん。女の子を一人で家に帰そうって言うの?」
「だって君はここまで一人で来たんじゃないか。だったら帰りも一人で大丈夫だろ?」
「さっきはまだ明るかったけど、今はもう真っ暗よ。そんな中をわたし一人で帰るだなん
て、不安だわあ。ああ、怖い怖い」
 その喜久の怖がり方には明らかに演技が入っているように見えたが、いずれにせよここ
で彼女を無視して帰ったら男がすたると俺は思った。何より後が怖い。喜久本人にチョッ
プを叩き込まれたりするかもしれないし、それに喜久に夢中な仁に何をされるかたまった
物じゃない。あいつの強さは喜久の学校の文化祭で目の当たりにしてるし…。というわけ
で俺は−。
「わかったよ、店まで送るよ。それでいいんだろう?」
「あらあ、ありがとう健くん。わたし嬉しいわあ」
 その言い方には、まだうさんくささが漂っているように思えた。ともかくこうして俺は
また喜久と一緒に“鬼賀屋”へ行くことになった。そしてその途中、喜久が言ってきた。
「そういえばさっきの彼…柳沼くんだっけ?最後に例の件は一考してみるって言ってたけ
ど、何のこと?」
「えーっと、それは…そう、部活に関することだよ、うん」
「本当に?なんだか嘘っぽいんだけどなあ。まあいいわ。それより香菜ちゃんのことなん
だけど、本当に大丈夫なのよね?」
「だから平気だって。ちゃんと仁の親父さんにそう言われたし。でもバイトの方はちょっ
ときついかもな…」
「やっぱりそうよね。それじゃあ、しばらく休んでもらうことにするわ」
「そうだね、それがいいよ」
 俺はそうあいづちを打ったが、続けて喜久がこんなことを言った。
「でも香菜ちゃんが出ないとなると、わたしの負担がちょっと大きくなっちゃうわね…」
「おいおい、もともと、文化祭が終わるまではちょくちょく休んでいいってことになって
たんだろう?だったら…」
「それはそうかもしれないけど、気持ちの問題なのよ。それで健くん、お願いがあるんだ
けど…」
 その喜久の言葉に俺は嫌な予感を感じた。そしてその嫌な予感は、現実の物となったの
である。

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