K’sストーリー第八章 いろんな事情(1)
 12月に入ったばかりのとある土曜日。今日も今日とて俺、東健吾は例のメンバーとい
つものようにラーメンの“鬼賀屋”でだべっていた。
「あーあ、明後日から期末テストだなあ。受験前の最後の定期テストだから、不安になっ
ちゃうよボク」
「克美さんは優秀だから全然いいじゃないですか。俺なんか片瀬先生に言われてる、全教
科60点以上ってのをクリアできるかどうか…」
「はーっはっはっは、それ言ったらこの仁様なんか、赤点取っちまうかもしれないほどの
ピンチなんだぜ!」
「でしたら、こんな所でバカ笑いなどしていないで、早々に家にお帰りになられて、勉強
をされた方がよろしいのではないですか?」
「や、柳沼くん、先輩の間さんにそんな言い方は…」
 柳沼の口の利き方にはらはらしながら香菜ちゃんが言ったが、彼女の心配通り、仁がケ
ンカ腰に柳沼に言った。
「けっ、言ってくれるじゃねえか。成績優秀者の余裕ってヤツかあ?香菜ちゃんから聞い
たところによると、おまえも克美さんに劣らず頭がいいそうじゃねえか」
「確かに成績が優秀であるとは事実ですが、僕自身、自分で頭がいいとは思っておりませ
ん。これは全て、努力の賜物だと思っております。授業で習ったことを復習して忘れない
ようにすれば、定期試験というのはそれほど難しい物ではないと思われます」
「まだ一年だからだろ。そのうち復習してもわからなくなるぜ。そんでもって俺みたいに
赤点取るか取らないかでひーひー言うようになるんだ」
「いくらこの先授業の内容が難しくなりましたところで、さすがに間さんのレベルまで成
績が落ちるということはないと思われますが」
「相変わらずの毒舌だな。ま、それにもようやく慣れてきたがな」
「毒舌とは心外ですね。ストレートな物言いと言っていただきたいものです」
「あ、あの、柳沼くんも、間さんも、あまり事を荒げないでください…」
 また香菜ちゃんがオロオロしている。その香菜ちゃんに俺は言った。
「大丈夫だよ香菜ちゃん。きっとこれ以上の大事にはならないだろうから。…っと、水が
ないな。おーい喜久、水くれるかな?」
 俺は店内にいる喜久にそう呼び掛けたのだが、彼女の返事はなかった。喜久が何をして
いたかと言うと、店のテレビでやっている時代劇を熱心に見ていたのだった。そしてその
番組は今、今回のクライマックスを迎えていた。
「天が呼ぶ地が呼ぶ俺を呼ぶ、悪を倒せと人が呼ぶ。俺は天、俺は空!人呼んで天空侍!
俺の背中の天の文字、引導代わりに地獄に落ちろぉ!」
 そのセリフと共に、着物をはだけて悪人たちに背中を見せる天空侍。トレードマークの
「天」という文字がそこに光っていた。そして直後に始まる殺陣シーン。お約束通り、天
空侍が悪人をばったばったとなぎ倒していく。
「喜久、親父の番組に夢中か…。仕方ない、自分で…」
「センパイ、わたしが持ってきます」
「いいよ香菜ちゃん。今日は君、お客としてこの店に来たんだから働かないで」
 俺は彼女にそう言って席を立つと、空になっていたコップに自分で水を注いで席に戻っ
た。するとテレビの中ではちょうど立ち回りシーンが終わり今回の締めが始まっていた。
相変わらず喜久の目は画面に釘付けだ。そんな彼女とテレビを見て俺はこうつぶやいた。
「しっかし、毎回毎回よくやるよなあ、うちの親父も」
「あの、少々気になったことがありますので、質問をしてもよろしいでしょうか?」
「ん?何だ?」
 柳沼が俺に聞いてきたので俺はそちらを向いた。
「東さんは先ほどから幾度か『親父』という言葉を使われておりますが、その言葉の意味
するところはいったい何なのでございましょうか?」
「ああ、そのことか。今テレビに出てる天空侍、あれ俺の親父なんだよ」
「そうなのでありますか?まさか東さんのお父上様が、そのような有名な俳優であったと
は…。他のみなさまは、この事実をご存知だったのでありますか?」
「知ってるわよ、みんな」
 番組が終わったのでテレビから視線を外した喜久が言った。そして彼女は続ける。
「あー、今週もおじさんかっこよかったわ。数ある『天空』シリーズの中でも、やっぱり
天空侍が最高ね」
「『天空』シリーズか…。ねえ健吾くん、そのシリーズって、他に何があったっけ?」
 克美さんが聞いてきたので、俺は指折り上げていく。
「えーっと、今やってた『天空侍』に、『天空奉行』、『天空同心』、それに『天空の大
泥棒』なんてのもあったな」
「あと、時代劇じゃないですけど『天空刑事』とか『天空ドクター』とかありましたね」
「よく知ってるね香菜ちゃん。まあ現代劇の方はどれも単発ドラマだけど、時代劇の『天
空』シリーズはローテーションでぐるぐる回ってるんだ。どれももう十何年続いてるんだ
よな。それで、主役の背中に天の一文字が入ってるって共通項があるんだ」
「そうそう。どの番組見てもその文字があるから、小さいころは本当におじさんの背中に
彫られてるのかと思ってたわ。だから健くんと一緒にお風呂に入れてもらった時になかっ
たから、不思議に思ったのよ」
「なにーっ!?」
 何気なく言った喜久の言葉に、仁が過剰に反応した。
「健吾貴様、喜久さんと一緒にお風呂に入っただとーっ!?」
「ち、小さいころの話だよ。それこそ大人と一緒じゃなきゃ危なくて入れないような…。
実際、俺あんまり覚えてないし…」
「でも一緒に入ったのは事実だろう?あー、くそ!うらやましい!」
「勝手にうらやましがってろ。みんなは、こんなバカほっといていいからね」
「てめえ、誰がバカだ誰が!そういうヤツには…!」
 そう言うと、仁はいきなり俺にヘッドロックをかけてきた。
「うわっ、痛てててて!やめろ、ギブギブ!」
 俺が手足をばたつかせているのを見て、女の子三人が笑っている。しかし、柳沼だけは
笑いもせず冷たいまなざしをしていた。そして言葉も冷たくこう言った。
「本当に間さんは乱暴者なのですね。あなたと東さんは親友なのではないのですか?なぜ
親友にそのようなことができるのです?」
「あ〜ん?」
 そんな声と共に、仁が俺を解放して柳沼をにらみつけた。
「この程度で暴力とか言うなんて、おまえ本当に男か?見てみろ、女の子たちだって笑っ
て見てるだろうが。それぐらいの大したことないじゃれ合いだってことだよ」
「なるほど…確かに周囲の状況から判断するに、大事であるとは言い難いようですね。そ
れではどこまでがじゃれ合いでどこからがケンカ…」
「だからそんな杓子定規になるなよ柳沼…」
 俺はそう言った。そして、まだ何かを考えている柳沼を横目で見た後、香菜ちゃんがこ
んなことを言ってきた。
「ところでセンパイ、センパイと間さんのことを見て、あらぬ疑いをかけている人がいる
んですが…」
「あ、あらぬ疑いって?」
 香菜ちゃんの言葉にドキッとした俺は、そう聞いてみた。
「漫画部の三年生に、小宮山さんって女性の先輩がいますよね?あの人が、仲よくしてる
東センパイと間さんを見て、お二人と親しいわたしに聞いてきたんです。『あの二人って
どっちが“攻め”でどっちが“受け”なの?』って…」
 これを聞いた俺は思わずずっこけそうになった。
「な、何聞いてるんだあの人…。で、そう聞かれた香菜ちゃんは何て答えたの?」
「えっと…『そんなことわかりません』って…」
「そりゃそうだ。実際、俺と仁はそんな関係じゃないし」
「その、“攻め”とか“受け”って、いったい何のことなの?」
 喜久がそう聞いてきたのだが、これに意外な人物が答えた。
「ボク知ってるよ。それってねえ…」
「克美さん、余計な説明はしなくていいです!」
 俺が克美さんを制したが、まさかこの人がそんなことを知っているとは思わなかった。
って、よく考えてみると父親が漫画家なんだからそういう知識があってもおかしくはない
んだよな…。ところで、俺に発言を止められた克美さんがこんなことを言ってきた。
「だけどさ、そんな風に思われるぐらい、健吾くんと仁くんが仲よしさんだってことだよ
ね。いつからそんなに仲いいの?」
「えっ?えーっと…いつからだっけ、健吾?」
「何言ってやがる、中学校の入学式の時からだろうが」
「そうだったっけ?もっと昔から親友やってる気がするんだけど…」
「俺と仁は違う小学校だったろ。だから中学になってからだよ。そう、あれは…」
 そうして俺は、仁と初めて会った時のことを回想し、みんなに話し始めた。

 それは今からおよそ四年半ほど前の春の日の出来事。市立木本西中に入学した俺は、そ
の初日、掲示板に張り出されていたクラス分けを元に自分の教室に行った。同じ小学校か
ら上がってきた人間もいれば、初めて目にする人間もいる。当時は今ほど背も高くなく、
だぶだぶの制服を着込んだ俺が教室に入って数歩進むと、急に肩に軽い衝撃が走った。誰
かがぶつかったようだ。
「あっ、悪い悪い。大丈夫か?」
 初対面の人間になれなれしく謝るこの男こそ、その時は名前も知らない仁だった。やっ
ぱり制服に着られている感じだったが、こいつは続けて俺に言った。
「おまえもこのクラスなのか?…って、ここにいるんだから当然だな。これから一年間、
よろしく頼むぜ。名前は何て言うんだ?」
「俺は東健吾。おまえは?」
「俺の名前は、これだ」
 そう言って胸の名札を指差す、目の前の男。そこで俺の動きが固まってしまった。
(フ、フルネームで漢字二文字?この名字でこの名前だと、四通りが考えられるよな。も
し間違えたら失礼だけど…聞くか?勘で行くか?)
 そうして少し考えた後、俺は口を開いた。
「は…はざま…じん?」
「おーっ、よくわかったなあ!」
 正解である名前で呼ばれ、仁の顔が明るくなった。
「結構間違えられるんだよな。アイダとか、ヒトシとか。一発で当てるなんて、俺とおま
え、仲よくやってけるかもな。物は試しだ、友達になってみようぜ」
「そんなことぐらいで仲よくできるかわかるのかよ…。まあいいや、こっちこそよろしく
な。ところで仁、おまえ、なんで俺にぶつかってきたんだ?」
「ん?ああ、このクラスにいる女の子のことチェックしながら歩いてたら、前にいるおま
えに気がつかなくてぶつかっちまったんだ。痛かったか?」
「いや、大丈夫だったけど…それより、女の子って?」
「女の子って言ったら、この世で一番素敵な物に決まってるだろ。いやー、このクラス、
レベル高い娘が多いねえ」
 そう言って教室の中を見渡す仁。この仁の言動で俺は直感的にわかった。こいつはとん
でもない女好きだと。
「あっ、あの娘、特にいいじゃん!見てみろよ健吾、すっげえかわいいぞ!」
 仁が俺にも女の子を見るように促す。何人かで固まって話をしている女の子たちの中で
仁が指差したのは、俺の知っている娘だった。
「あれ、喜久じゃん。彼女も同じクラスだったんだ」
「なにーっ!?おまえ、あの娘と知り合いなのか!?」
「あ、ああ。家が隣同士で、昔からの付き合い…」
「いわゆるお・さ・な・な・じ・みってヤツか!?くそう、うらやましいぞおまえ!」
「そう思うのは勝手だけど、頼むからもう少し静かにしてくれよ。クラスのみんなが、俺
たちのことを見てるぞ」
 そう、仁の大きな声に、何人ものクラスメイトが俺たちに視線を送っていた。その中に
は喜久もいて、そして俺に気がつくと、一緒に話をしていた女の子に一言言ってからこち
らに向かってきた。
「健くんも一緒のクラスだったのね。またよろしく。この人は?」
「俺、間仁!」
 俺が言うよりも早く、仁は自分で自己紹介をした。
「今日付けで、健吾の友人になった男だ。ここで俺と君が会ったのは避け難い運命…仲よ
くしよう!」
「あ、ああ、そうなの。それじゃ一年間、よろしくね」

「あの時は、本当に仁くんとの付き合いは一年で終わると思ってたのよねえ」
 話の途中で、喜久がつぶやくように言った。そして続ける。
「それが高校生になってまでこんな風にお付き合いが続くなんてねえ。あっ、付き合いっ
て言っても、そういう意味じゃないから」
 仁に言われる前に、喜久は自分でそう念を押した。先回りされた仁は、その代わりかど
うかわからないが、こんなことを言った。
「けど、健吾に『彼女は金がかかる女だ』って言われた時はどういう意味かと思ったね。
結局、喜久さんと親密になるにはこの店の常連になる必要があるってことだったけど」
「やだ、健くんってば仁くんにそんなこと言ってたの?確かに仁くんはこのお店にたくさ
んお金落としていってくれてるから、その点は感謝してるけど…」
「だろだろ?だから俺と恋人として付き合って…」
「それとこれとは、別」
 またいつものように仁のことをあしらう喜久。この言葉にふられた当人の仁を除いた全
員が笑った。考えるのをやめていた柳沼も、軽く鼻で笑っていた。
「他のみんなはともかく、柳沼のその笑い方はなんだかむかつくぞ…」
「気にすんな仁。こいつはこういう笑い方しかできないって割り切るんだ」
「はいはい、わかったよ。しかし、どういう環境で育ったらこんな性格になるのやら…」
「聞きたいのでしたら、お話しても一向に構いませんが」
「いや、いい。男の生い立ちなんか聞いても全然おもしろくねえし」
「あはは、仁くんらしいね。ところで、香菜ちゃんだけど…」
 また克美さんが聞いてきた。
「わたしですか?わたしと東センパイが出会ったのは、中学の漫画部で…」
「それは知ってるよ。ボクが知りたいのは、健吾くんっていつから香菜ちゃんのこと名前
で呼んでたのかなあってこと。ボクだって、彼女になってから一ヶ月以上名字で呼ばれて
たから気になるの」
「名前で…そういえば俺、そんなに親しくない女の子は名前で呼ばないのに、香菜ちゃん
に関しては割と早いうちからそう呼んでた覚えがあるなあ。なんでだ?」
「センパイ、忘れちゃったんですか?わたしと同じ学年の新入部員に、もう一人『桂』っ
て名字の女の子がいたんです。それで紛らわしいからって、部の中でそれぞれ名前で呼ぶ
ルールに決めたんです。結局、もう一人の桂さんは半年ほどで退部しちゃいましたけど」
「ああそうだ、思い出した。それでその後も、名字には戻さないでずっと『香菜ちゃん』
なんだ」
「そういういきさつがあったのか。俺なんかは、知り合って少ししたらすぐ名前だったけ
どな。他の女の子に対してと同じで」
「仁くん、あなた少ししたらどころか、会った直後にはもう香菜ちゃんのこと名前で呼ん
でたじゃないの」
「ああ、それは俺も覚えてる。仁と喜久、香菜ちゃんに初めて会ったのが同じタイミング
だったんだよね」
 そして俺は、今度は中学二年に成りたての時のことをみんなに話した。

 中二になり、今ほどではないにしろ背の伸びた俺。大きかった制服は、逆に小さくなり
始めていた。そしてそれは、またも同じクラスになった仁も一緒だった。四月も半ばのと
ある日の昼休み、俺たち二人はぼーっとしながら話をしていた。
「あーあ、なーんで喜久さんと違うクラスになっちゃったんだろう。こいつとはまた一緒
だってのによー」
「その言葉、そっくりおまえに返すぜ。もっとも俺は、これまでにも喜久と別のクラスに
なったことが小学校時代にあったし、それほどショックじゃないけどな」
「そうだよな、健吾、小学校の時から…って言うか産まれた時から彼女と一緒なんだよな
あ…。その差を埋めるには、こいつ以上に“鬼賀屋”に通うしかない!」
「言っとくけど、俺と喜久はおまえが思ってるような関係じゃないから。去年一年の俺た
ちを見て、それがわかったろ?」
「いやいや、俺の前ではそうでも、二人きりになったら…ってことも考えられる。健吾、
おまえには負けねえからな!」
「勝手に言ってろ。だけどそんなんじゃ、もし喜久と違う高校に行くことになったら、お
まえ死んじまうんじゃねーか?」
「喜久さんと違う高校になる?はっ、そんなことあるわけないじゃん。いずれにせよ、今
年一年、つまんねえ年になりそうだよなあ」
 仁がそんなことを言った時、俺たちの背後からこんな声がした。
「けーんーくーん!」
 俺のことをこう呼ぶ人間はただ一人。そしてこの声に、仁が超反応を示した。
「喜久さーん!俺に会いにわざわざ別のクラスから来てくれるなんて、嬉しいー!」
「違うから間くん。健くん、あなたにお客様よ」
「えっ?俺に?」
 そう言って俺が教室の出入り口を見ると、そこには香菜ちゃん−その時点ではまだ『桂
さん』と呼んでいたが−がいた。俺と目が合うと、香菜ちゃんは軽く頭を下げた。
「あれは桂さん…なんで喜久が彼女を連れてくるの?」
「あの娘、桂さんっていうの?彼女、健くんに会いに来たんだけど、間違えてわたしのク
ラスに来ちゃったの。だからこっちに連れてきてあげたってわけ」
「そうだったんだ。ありがとう喜久。悪い仁、俺ちょっと行くわ」
 そう仁に言って、俺は香菜ちゃんの所に行った。
「どうしたの桂さん。俺に何か用?」
「あ、あ、あ、あの…漫画部の顧問の先生に頼まれたんです。あ、東センパイにこれを渡
してくれって…」
「先生に?…あー、これね。わかったわかった。桂さん、わざわざどうもありがとうね」
「い、いえ。それとなんですけど…」
「やあ、元気!?」
 香菜ちゃんの声をさえぎるように、いつの間にか俺たちの近くに来ていた仁が言った。
その声に香菜ちゃんの体がビクッとなったが、それを気にせず仁が続ける。
「俺のかわいい娘センサーにビビッと来たからこっち来てみたんだけど、いやー、思った
以上にかわいいよ君。名前何ていうの?」
「あ、あ、あ、あの…」
 まくし立てる仁に、香菜ちゃんがどぎまぎしている。
「おい仁、そんな一気に言うなよ。桂さん驚いてるじゃないか」
「いーじゃん別に。君、桂さんって言うんだ。下の名前は?」
「この娘は桂…桂…ごめん、君はどっちの桂さんだったっけ?」
「か、香菜…です。桂…香菜…です」
「香菜ちゃんっていうんだ。俺は間仁。君と健吾って、どういう関係なの?」
「この娘は、漫画部の後輩だよ」
「ふーん…って、えーっ!?君みたいなかわいい娘が漫画なんて描いてるのー!?なんで
よりによって漫画部なのー!?」
 仁がそう言うと、香菜ちゃんの目が少し吊り上り。怒ったような口調で言った。
「それは女の子が漫画を描いてはいけないということですか?プロの漫画家さんの中に女
性の方ははたくさんいます。それなのにそんなことを言うなんてある意味時代錯誤で女性
差別です。撤回してください」
 これまでのしどろもどろの香菜ちゃんとはまるで違うはっきりとした主張に、今度は仁
がどぎまぎし始めた。
「べ、別に俺はそういうつもりで言ったんじゃないんだけど…もし気に障ったんだったら
謝るよ。ごめんね香菜ちゃん」
「わ、わかってくださればいいんです。わたしこそ、あんな風に責めてすみません…」
 香菜ちゃんが元に戻った。とその時、教室の中から喜久が出てきた。
「あれ、喜久、まだいたんだ」
「去年まで一緒だった友達とおしゃべりしてたの。それじゃわたし、そろそろ行くわね」
「えっと…先ほどの方ですよね?ありがとうございました。あの…この方、東センパイの
お知り合いなんですか?」
「まあね。せっかくだから紹介しておこうか。こっちは俺の友達の鬼賀喜久。で、こちら
は漫画部一年の桂香菜さん。二人はお互いに、接点が少ないと思うけどね」

「…って言ってたのに、今じゃその香菜ちゃんがこのお店で働いてるんだもんね」
 中一の回想の時と同じように、また喜久が俺たちを現在の時間に引き戻した。
「東センパイが、よく連れてきてくれたおかげです。だからセンパイがいなかったら、こ
こでアルバイトすることもなかったと思います」
「連れてくるようになったのは、俺が高校生になって香菜ちゃんのお母さんが大家やって
るのアパートに入ってからだけどね。今じゃそこも追い出されちゃったけど」
「でもそのおかげでボクと一つ屋根の下に暮らせてるんだからいいじゃない。ねえ健吾く
ん、今建て直してるのができあがったら、ボクん家出てっちゃうの?」
「そ、それはその時になってみないと…って、そのこと知らない人間もいるんですから、
気軽に話さないでくださいよ」
 そう言って俺は柳沼のことを見た。その柳沼は、不思議そうな顔でこう言った。
「はて、今のは僕の聞き間違いでしょうか。東さんと片瀬さんが一つ屋根の下で暮らして
いると…」
「事実よそれは。健くんと克美さんってば、一緒に同棲してるの。あっ、克美さんのお父
さんも一緒だから、同棲とはいえないかしらねえ」
 揶揄するように喜久が説明した。そういえばこの娘、俺が片瀬家で暮らすことになった
時も、軽蔑するような言葉を言ったんだっけ(ひょっとしたら俺の思い込みかもしれない
けど…)。それで俺は柳沼も同じようなことを言うんじゃないかと思い、聞いてみた。
「なあ柳沼…こんな俺たち、不潔だと思うか?」
「なぜでございますか?」
 意外な答えだった。柳沼は続ける。
「あなたと片瀬さんは恋人同士。その二人の間で起きることに他人である僕が余計な口出
しはいたしません。もっとも、どちらかが人道的に許されざる行動をした場合は、何らか
の苦言を呈するかもしれませんが…」
「ああ、それは大丈夫!俺、克美さんや片瀬先生に受けた恩を仇で返すようなことは絶対
にしないから!」
「そうですか。それならばよろしいのですが」
「あっ、いらっしゃいませー」
 店にお客が入ってきたので、喜久が接客に行った。すると、克美さんが何かを思い出し
たように言った。
「そういえばさ、柳沼くんも、ボクや健吾くんたちと一緒の中学出身なんだよね?」
「片瀬さんも同じとは今初めて聞きましたが、確かに東さんは僕の中学校の先輩です」
「だよねえ。なのに高校に入るまで、健吾くんは柳沼くんのこと知らなかったみたいだけ
ど…柳沼くんは中学時代漫画部じゃなかったってこと?」
「その通りです。僕は中学生の時は、美術部で主に油絵を描いておりました」
「油絵ぇ!?」
 意外な単語に、俺と仁の声がハモった。
「それほど驚かれることですか?美術部に入っていれば油絵を描いてもおかしくない…」
「いや、そうじゃなくて、中学生のころからそんな物描いてたおまえが、なんで高校では
健吾と同じ漫画部なのかって…」
「簡単に言えば、油絵に関する基礎技術は中学校の三年間で身につけたので、高校の三年
間では違う技法を体得してみようかと思った次第であります。今でも漫画部に出ない日な
どは、家で油絵描きをしておりますし」
 たった三年で身につけられるほど、油絵の世界は浅くはないと思うが…。それとも、基
礎だけで十分って思ったのかな?そんなことを考えていると、仁が言った。
「ま、こいつが昔何やってて、今何を考えて漫画部にいるかなんてことは俺には関係ねー
けどな。それよりテストだテスト!ちょっとは勉強しないとさすがにまずい!おい健吾、
おまえはどうするんだ?」
「そりゃあこの後帰ってやるさ。片瀬先生のアシスタントも、今週は昨晩だけで終わりに
してもらったしな」
「それじゃ、俺ん家で一緒に勉強しようぜ。二人なら、一人でやるよりはかどるぜ!」
「えー、おまえの家でかあ?どうするかなあ…」
 俺が悩んでいると、仁が今は少し遠くにいる喜久を気にしながら小さな声でこんなこと
を言ってきた。
「例えばさ、俺一人で勉強してたとするだろ?そこに女の子からの電話なんかかかってき
たら、ホイホイ出かけちまう可能性があるわけさ。だから、それを阻止するためにもおま
えにいてほしいってわけ」
「あのな…。でもまあ、俺もおまえが違う学年になるのは嫌だし、協力するよ」
「さすがにそこまではやばくないけど…とにかくサンキューな。それじゃ、まずはおまえ
の家行って、勉強道具持ったらそのまま俺ん家だ。明日までノンストップで行くぜ!」
「ちょ、ちょっと待て。明日までって、今晩おまえの家に泊まれってのか?」
「いーだろ休みなんだし」
「おまえ的にはよくても、俺は克美さんに許可取る必要とかあるの!…いいですか?」
「全然OKだよ。そっかあ、健吾くんと仁くん、今日は徹夜で勉強かあ。そうだ、二人の
ために、お夜食でも作って仁くんの家に差し入れに行こうか?」
 この克美さんの言葉に俺は焦り、そしてこう言った。
「そ、そんな危険なことはやめてください。こいつの所に行って何もされずに済んだ女の
子は身内しかいないってもっぱらの噂なんですよ」
「どんな噂だそりゃあ!俺は同意した女の子にしか手を出してないって!克美さん、全然
安全ですからどんどん俺の所に来てください!」
「今健吾くんが言ったような噂が流れるのもわかる気はするけど…ボクと仁くんの二人き
りになるわけじゃないから大丈夫だよ」
「まあ、克美さんがそう言うなら…」
「よーし、話もまとまったところで行くぞ健吾!喜久さーん、お代ここに置いとくから」
「痛てて!仁、腕引っ張るなあ!」
 こうして俺は、半ば強引に仁の家に連れて行かれることになったのである。

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