K’sストーリー第九章 スーパーアイドル健吾?(2)
 1月1日の深夜に眠りについた俺だったが、人間の体内時計というのは不思議な物で、
それでもだいたい普通の日と同じぐらいに目が覚めた。すぐに起きる必要もないのでしば
らくベッドの中でウダウダしていたが、トイレに行きたくなったので外に出た。そして、
用を足してトイレから出ると−片瀬先生と鉢合わせした。
「あっ、先生、おはようございます。って言うか、明けましておめでとうございます」
「ああ、おめでとう。今年もアシスタント、よろしく頼むよ。ところで東くんは、おなか
は空いていないかね?」
「えっ?ああ、はい。空いてます。昨夜帰ってきてから、何も食べてませんし…」
「それじゃあ、克美を起こしてきてくれないか?みんなで食事にしよう」
「わかりました」
 先生に言われた俺は、克美さんの部屋の前まで来て中に向かって声をかけた。
「克美さーん、起きてますかー?」
 返事はなかった。
「克美さん、克美さーん?」
 そう言いながらドアを何度もノックしてみたところ、ドアが開いてしまった。もうここ
まで来たら中に入って起こそうと俺は思い、入った。ベッドで克美さんが首から下を完全
に布団の中に入れた状態で眠っていた。顔はこちら側を向いているが、熟睡している。
「よく寝てるなー…ん?」
 俺は、ベッドの側に放り出されている服を見つけた。昨晩(正確には今日の夜)初詣に
出かけた時に着ていった服だった。
「…たたみもせず脱ぎっ放しなんて、克美さんらしくないな」
 俺はそうつぶやいた。するとその声に反応したのか、克美さんの目が開いた。
「んっ…んれ?健吾くん…?」
「おはようございます、克美さん」
 目は開いたものの、克美さんはまだ寝ぼけているようで、そのまましばらく動かなかっ
た。だが、時間がたつにつれ、その顔に焦りの色が見え始めてきた。
「あ…あのね健吾くん…」
「はい、何でしょう?」
「昨夜は、眠っちゃったボクを連れてきてくれてありがとう。それで、夜中に一回目を覚
まして、服がしわになっちゃうからって脱いだのはいいんだけど、パジャマに着替える気
力がなくて、そのまま布団に入っちゃったんだ」
「えっ…?と、いうことは…?」
「この下…着てないの…」
「し、失礼しましたー!」
 俺は一目散に部屋を飛び出し、ドアを閉めた。新年早々びっくりした。まさか服を脱い
だ状態で寝ているとは。さすがに全裸でなく下着姿だったのだろうが、いずれにせよ布団
がずれてなくてよかった…。部屋の前で気持ちを落ち着けていると、ドアが開いた。
「あっ、健吾くん…。ごめん、出られないからどいてくれるかな?」
「あっ、ご、ごめんなさい」
 そして部屋から出てきた克美さんは、もちろん服を着ていたのでほっとした。克美さん
が俺に言う。
「ごめんね健吾くん、せっかく起こしに来てくれたのに…」
「いえ、こちらこそ勝手に入ってしまって…外から声はかけたんですけど…」
「ううん、健吾くんは悪くない…と思うよ。じゃ、下行こうか」
「はい」
 というわけで俺たち二人は二階から一階に降りた。階下では、片瀬先生が俺たちを今や
遅しと待っていた。
「おお、やっと来たか。それでは二人とも、そこに座りなさい」
 先生の言葉に従って、座る俺たち。先生が何のために俺たちを座らせたのかはわかって
いるので、二人とも正座をした。それを確認すると、先生が口を開いた。
「うむ。それでは…二人とも、新年明けましておめでとう」
「明けましておめでとうございます、お父さん」
「先生、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします」
「ああ、よろしくな。で、これは少ないが…」
 そう言って先生が小さな袋を取り出す。お年玉のポチ袋だった。
「あっ、どうもありがとうお父さん」
「よかったですね克美さん。…って、どうして二つあるんです?」
「一つは東くん、君の分だ」
「ええっ、俺にも?そんな、悪いですよ」
「いいからいいから。高校生なんてまだ子供だ。子供が遠慮なんてするんじゃない」
「そ、そうですか?それじゃあいただきます。どうもありがとうございます」
「受け取ってもらえてよかったよ。それじゃ克美、食事の用意をしてくれないか?」
「はーい」
 それで克美さんが食事の準備をする。お正月ということで、テーブルの上にはたくさん
のおせち料理が並んだ。
「いつもはほとんど全部ボクの手作りなんだけど、今年はボク受験生だから既製品ばっか
りなんだ。ごめんね健吾くん、お父さん。来年はちゃんと作るから」
「そんなことないっスよ。克美さんはいつも家事がんばってるんですから、正月ぐらいは
手を抜いていいと思いますよ。ねえ先生?」
「うむ、そうだな。そんなことよりいいかげん腹が減った。そろそろ食べないか?」
「そうだね。それじゃあ、いただきまーす」
 そしておせち料理を食べる俺たち。確かに克美さんの手作りでないのは残念だが、既製
品とは言えかなり高級なおせちなのでこれはこれでいい。そんな中、俺は今年唯一克美さ
んが作った黒豆に手を伸ばし、口に入れた。
「んっ!この黒豆すっごいうまい!このセットの中に入ってるヤツよりずっとうまい!」
「私もそう思っていた。さすがは克美だ。正直なところ、金が取れる料理だと思うぞ」
「やだなあ二人とも、ほめ過ぎだよ。…でも、そう言ってもらえてすごく嬉しいな」
 克美さんが喜んでいる。こうして俺たちはたくさんの料理で正月を満喫したのだった。

 おせち料理を食べた後、テレビの正月特番を見ながらこたつでゴロゴロしていた俺。そ
してそのうち年賀状が来た。仁や喜久からの年賀状は俺と克美さんの両名宛てになってい
たし、俺だけに来た物もいくらかはあったものの、当然のことながら一番多いのは片瀬先
生宛ての年賀状。その中には先生と交流の深いプロの漫画家さんの物があって、限られた
人間にしか見ることのできないオリジナルイラストはまさに垂涎物だった。俺もいつかは
こういう人たちから年賀状をもらえるような漫画家になりたいと思っていた時、俺の携帯
に着信があった。画面を見てみると−京都にいるはずの俺の親父の携帯からだった。
「あー、そーいや新年の挨拶もしてなかったな…いつもは出たくないけど、出るか」
 というわけで俺は、先生や克美さんのいるリビングから少し離れた所で電話に出た。
「おー、健吾か?明けましておめでとうよ!」
「ああ、おめでとう。会う機会は少ないだろうけど、今年もよろしく。んじゃな」
 そう言って俺は電話を切ろうとしたのだが−。
「待て待て待て。実の父親に対する態度かそれが?ちょっと冷てーんじゃねーのか?」
「だって、特に話すこともねーし。直接会えるなら、もうちょっと話すけどよ」
 すると、親父が信じられない言葉を返してきた。
「それじゃあ、会おうぜ。実は俺と母さん、京都から東京に出てきてるんだ。今は都内の
ホテルにいる。ここからだと…そうだな、45分ぐらいで西木本駅に着く」
「おいおい、本当かよ。それじゃあ会わねーわけにはいかねーよな…。ちょっと待ってて
くれ、ここにいる人に行っていいか聞いてみる」
 それで俺は克美さんと片瀬先生に事の次第を話すことにした。
「克美さん、先生、今俺の親父から電話があって、これこれこう言ってるんですけど…」
「そうか。なら、行ってくればいい」
「そうだよ。健吾くん、久しぶりにお父さんとお母さんに甘えてきたら?」
「いや、さすがに高2にもなって親には甘えませんけど…とにかく、行ってきますね」
 で、俺は保留にしていた親父との電話に再度出る。
「いいってよ。じゃあ、45分後だな?それに合わせて駅に行くよ」
「よーし決まりだ。じゃあ、駅でな」
 こうして電話は切れた。そして俺は出かける準備をし、親父たちとの待ち合わせ時間に
間に合うように家を出て駅に向かった。駅に着いた時点でまだ約束の時間になってなかっ
たので、当然のごとく二人は来ていなかった。
「時間に間に合う電車に乗ってなかったら、ソッコー帰っちまおうかな…」
 そんなことを俺は思っていたのだが、あいにくとついさっき来たばかりの電車を降りた
人たちの中に二人はいた。親父は芸能人をやっているが、テレビに出ている姿そのままで
はまずいと思っているのか、帽子を深くかぶり、おそらく伊達であろうメガネをかけてい
た。そして俺を見つけると、もちろん近づいてきた。
「よう健吾、久しぶりだな。修学旅行の時代劇村以来か?元気だったか?」
「まあな。そっちも相変わらず時代劇で活躍してるようだから、元気みてーだな」
「そうなのよ〜。お父さんってば〜、ますます元気になっちゃって〜。母さん〜、体がも
たなくて〜、困っちゃってるのよ〜」
「まったく、母さんのそのしゃべり方も相変わらずだな。…ん?なんで親父が元気だと母
さんの体がもたねーんだ?まさかあんたら、修学旅行で会った時に言ってた、俺の弟か妹
ができる行為を本当にしてるんじゃねーだろーな?」
「さーて、それはどーかな。ま、こんな所で立ち話もなんだし、どっか入ろうぜ」
「それじゃあ〜、久しぶりに鬼賀さんの所に行かな〜い?喜久ちゃんが〜、ど〜んな素敵
な美人になったのか〜、見てみたいし〜」
「元日からやってるとは思えねーけどな。とりあえず聞いてみる。待っててくれ」
 それで俺は喜久に電話をかけてみた。
「あっ、喜久か?健吾だけど…まさか、今日は店やってないよな?やってる?ああ、そー
なんだ。うん、やってるんだったら、今から行くよ。サプライズゲストつきでね。誰かっ
て?行ってからのお楽しみってことで。じゃあね」
 そんな会話をして電話を切った俺は、親父たちに言った。
「残念ながら元日から営業中だって」
「何だその残念ながらって。とにかく、やってるなら行こうか母さん」
「そうね〜、行きましょう〜」
 こうして俺たち三人は“鬼賀屋”に足を向けた。はあ、12時間ほど前に克美さんたち
と行った店に、また行かなきゃなんねーのか…。

 というわけで“鬼賀屋”についたのだが、俺はどーも気が乗っていない。親父たちとこ
の店に入るのが、なんとなく嫌なんだ。
「ちょっと中の様子見てくるから、二人はそこで待っててくれ」
 親父と母さんにそう言って、俺は店の戸を少し開けた状態で中を覗いてみた。客はほと
んどいないが、なるほど、確かに営業はしている。そんな時−。
「あら?何してるのよ健くん?」
 店の中で働いている喜久に気づかれてしまった。それで俺は少しだけ開けていた入り口
を大きく開けて中に入った。
「やあ喜久。驚いたな、本当にやってるんだ」
「まあね。おせちに飽きた人のために、ってお父さんが言って…」
「いや、一日じゃまだ飽きないだろ」
「そうよね。わたしもそう思ったんだけど…。ところで、さっき電話で話してたサプライ
ズゲストって?」
「ああ、そうそう。今連れてくるよ」
 それで俺は店の外で待たせていた親父たちを呼んできた。
「健治おじさん!それに康子おばさんも!」
「やあ喜久ちゃん、久しぶり」
「お久しぶりね〜。喜久ちゃ〜ん、きれいになったわね〜」
「そんなことないですよ。あー、おじさんに会えるなんて、今年は春から縁起がいいわ」
 そう言う喜久は少し興奮している。実は彼女は時代劇マニアで、時代劇俳優である俺の
親父の大ファンなんだ。と言うよりは、時代劇俳優の親父によくしてもらったからその他
のも見るようになったというのが正確か。他の客のことも忘れ、親父に話しかける。
「おじさん、サイン下さい!」
「いいけど、俺たちがこっち離れる時にあげたヤツと変わってないぞ?」
「同じでもいいんです。その代わり、ちゃんと日付入れてください」
「わかったわかった。で、どれにするんだ?」
 親父が聞くと、喜久は店の棚の中から色紙を取り出してきた。そういえば、ラーメン屋
に有名人が来店記念のサインを残していくというのはよくあることなので常備してあると
この店の親父さんに聞いたことがある。それで親父がその色紙にサインをすると、喜久は
感激してそいつを抱きしめた。
「ありがとうございますおじさん!おじさん、今日は車じゃないですよね?ビールサービ
スします!」
「おお、嬉しいね。…っと、そういや、向こうには挨拶がまだだったな」
 そう言うと親父は厨房の方に行って、喜久の親父さんに話しかけた。
「よう強志、久しぶりだな。どうだい、店の方は?」
「あっ、ご無沙汰してます健治さん。今日は元日なんで見ての通りアレですけど、いつも
はそれなりに繁盛してますよ。妻と娘を食わせていけるぐらいにはね」
「それならよかった。じゃあ、その繁盛してるラーメンを食わせてもらおうか。醤油ラー
メン三つ、俺と母さんと健吾の分だ」
「わかったっス。席で待っててくださいっス」
 そんな会話の後、親父は俺たちの所に戻ってきた。
「勝手に醤油ラーメンにしたけど、いいよな」
「俺は別に」
「母さんも〜、それでいいわよ〜。それじゃ〜、待ってましょ〜」
 それで俺たち三人はテーブルについた。ラーメンができるのを待っていると、急にこの
店にいたお客さんが俺たちのテーブルに近づいてきて、言った。
「あ、あの、もしかして東山健二郎さんじゃないですか?」
「ああ、そうだけど」
「わあっ、こんな所で芸能人に会えるなんて。サインもらっていいですか?」
「いいですよ。喜久ちゃん、色紙一枚もらっていいかな?」
「はい、どうぞ」
 そうして喜久から受け取った色紙にサインをする親父。そいつを受け取ったお客さんは
礼を言って店を出ていった。その直後、今度は喜久が俺たちのテーブルに来た。さっきの
人が最後のお客だったので、つきっきりで接客しようというのだろうか。手に持ったおぼ
んには二つの水が入ったコップと、一つの空のコップ、そして瓶ビールが乗っていた。
「これが健くんとおばさんで…おじさん、どうぞ!」
「おお、ありがとう喜久ちゃん。若くて美人な娘にお酌してもらうと、ビールもおいしく
なるな。もちろん、母さんに注いでもらうビールは別格だけど」
「嫌だわ〜、お父さんってば〜。でも〜、喜久ちゃんが美人なのは〜、事実よね〜」
「もう、おじさんもおばさんもほめ過ぎですよ」
 と言いつつ、喜久の顔はほころんでいる。そんな中、母さんが続けて言った。
「わたし〜、こんな娘が欲しいわ〜。昔は〜、将来義理の娘になってくれると思ってたん
だけど〜、今のままだと〜、ダメなのよね〜」
 喜久が母さんの義理の娘、というのは、将来俺と喜久が結婚というのを想定していたん
だろうが、恋人同士でもない今の俺たちにそんな芽はない。俺がそう思っていると、親父
がとんでもないことを言いやがった。
「けど将来はどうなるかわからないぞ。健吾と喜久ちゃん、よりが戻るかもしれないし」
「それは俺が克美さんと別れるかもしれないってことかよ?新年早々縁起でもないこと言
うんじゃねーよこのバカ親父」
「バカとは何だバカとは。で、実際どうなんだ喜久ちゃん?その、今の健吾の彼女からこ
いつを略奪したいとか思ったことあるのか?」
「うーん、ありませんね。克美さん、すっごくいい人ですから。おじさんもおばさんも、
会ってみたらきっと気に入ると思いますよ」
 ナイスフォローだ喜久。俺は思わず心の中で親指を立てた。さらに俺は、ここであるこ
とを思い出して、親父に言った。
「つーか親父、一回克美さんに会ってるよな?」
「えっ?いつだよ?」
「ほら、俺があの人の家に引っ越した日、あんた突然そこに来たろ。その時だよ」
「だけど、あの時はあの家のご主人と話をしただけだし…玄関で、小さな女の子に取り次
いでもらったけど」
「その小さな女の子が克美さんだよ」
「えっ、そうなのか?おまえの彼女はおまえより年上だっていうから、あの娘はてっきり
妹かなんかだと…。どちらにしろ、それじゃ会ったっつーよりは顔を合わせただけって感
じだよな。後でちゃんと会わせろよな」
「ああ、そのうちな」
 俺がそう言ったその時、厨房から喜久の親父さんが出てきた。手にはできたてのラーメ
ンが乗ったおぼんを持っている。
「お父さんが持ってくるなんて珍しいわね」
「健治さんは、俺にとって特別な人だからな。さあ、食べてください」
 昔のことは知らないが、どうやら喜久の親父さんは、俺の親父に多大な恩を感じている
らしい。それはともかく、さっそく俺はそのラーメンを口にしてみた。うん、いつも食べ
ている、うまいラーメンだ。で、俺に続いてラーメンを食べた親父の感想はというと−。
「うん、以前に食べた時よりもうまい。腕を上げたな強志」
「本当ですか?そう言ってもらえると嬉しいですね。グルメ番組のレポーターをやったこ
ともある健治さんにうまいって言ってもらえると、自信がつきます」
「確かに名店とか言われる店の料理はその名に違わずうまいんだがな、このラーメンは何
て言うか、食べてホッとするって言うか…」
「難しいことはよくわからないけど〜、とにかくおいしいわ〜」
 …なんか、せっかくの親父のコメントを母さんがぶち壊した気がしないでもないが、と
もかく、二人とも満足しているようだ。そしてラーメンを食べてる途中で俺のコップの水
がなくなったので、俺は喜久を呼ぼうとしたのだが−。
「健吾、グラスが空になってるな。飲むか?」
 そう言って親父がビールを差し出してきた。
「バカ野郎!高校生の子供に酒を勧める親がどこにいるんだよ!」
「ここにいるじゃねーか。今日は正月だ、固いこと言わずに飲め」
「だが断る!」
 俺と親父がそんな言い争いをしているその最中に店の戸が開き、一人の若い女性が入っ
てきた。お客さんだろうか。
「いらっしゃませー」
「あの…この店に東山健二郎さんが来ているって聞いたんですけど…」
 どうやらラーメンでなく親父目当てでこの店に来たようだ。そしてその女性、親父を見
つけると小走りに近づいてきた。
「本物の東山さん!あの、サイン下さい!」
 こう言われた親父は困った顔をして言った。
「ラーメン屋に、サインだけもらいに来るってのもどうかと思うんだけどなあ…」
「そ、それもそうですよね。じゃあ、注文します。すいません、味噌ラーメン一つ!」
「あっ、は、はい。オーダー入ります。味噌ラーメン一丁!」
 不意な注文に驚いた喜久。一方の親父はと言うと−。
「そういうことならサインしてあげないわけにもいかないな。手に持ってるそれにすれば
いいのかな?」
「は、はい、お願いします」
 というわけでその女性にサインをあげる親父。それをもらった女性はすごい喜び、そし
てその後来たラーメンを食べて帰っていった。その人が帰った後で親父は言った。
「たまにあるんだよなー、こーゆーこと」
 あるのかよ。俺がそう心でつぶやくと、また店の戸が開いた。
「この店でラーメン食べると、東山健二郎のサインがもらえるんだって?」
 今度は30歳ぐらいの男性だった。いや、よく見るとその人だけじゃない。何人もの人
が、大挙して押し寄せてきた。おいおい、マジかよ。その様子を見た親父が、喜久の親父
さんに言う。
「強志、勝手なことかもしれないけど、ここでサイン会開いていいか?もちろん、この店
で何か食った人にだけって条件で」
「え、ええ、いいっスよ」
 親父さんも少し驚いている。そんな中、親父が喜久に聞いた。
「喜久ちゃん、色紙あと何枚ぐらいある?」
「えっ?えーっと…六枚ですね」
「見たところ十人はいるよな…。よし健吾、近くの本屋で、色紙買い占めてこい」
「買い占めるって…足りない分だけ買ってくればいいんじゃねーのか?」
「いや、これは俺の勘だが、まだ増える。心配すんな、余ったら俺が持ち帰る」
「わかったよ。じゃ、金よこせ」
「後で払うから立て替えといてくれ」
「ちゃんと払えよな!」
 こうして俺は“鬼賀屋”を出て近くの本屋に行った。元日なので休みだったらどうしよ
うかと思ったがちゃんと営業していた。で、そこで色紙を二十枚ほど買って店に戻ったと
ころ、俺が出ていった時よりも人数が増えていた。親父の勘が当たったわけだ。そしてそ
の人たちがみんな何らかの注文をするもんだから、親父さんと喜久、そして本来ならば元
日でそう客も来ないだろうからと休んでいたところを呼び出された喜久のお母さんがてん
てこ舞いしていた。
「親父、色紙だ。喜久、俺も手伝う!」
「ありがとう健くん。それじゃこれ、一番テーブルにお願い」
 こうして、急きょ嵐のサイン会が開かれた。しかし、こんなことになるなんて、親父の
人気がとんでもないものであることを俺は痛感した。結局、最後の一人が帰ったのは、会
が始まって一時間半近く過ぎてからだった。
「あー疲れた…」
 店内にいるのが俺たちと喜久の家族だけになった後、俺はそうつぶやいた。
「ごめんなさいね健くん、店の手伝いさせちゃって」
「いや、俺はいいんだけど、親父、サイン書きっ放しで、手の方は大丈夫か?」
「書き慣れてるから平気だ。それより強志、それに美代さんに喜久ちゃんも、急にこんな
ことになって、申し訳ない」
「平気ですよ。むしろ、予想以上の売上があってホクホク状態っス。俺たち家族って、す
ごい人と知り合いなんですね」
「そう言ってもらえると心が晴れる。そう言えば、俺たちが食ったラーメンの代金払って
なかったよな。喜久ちゃん、これ」
「はい、一万円お預かりします。えーっとおつりは…」
「ああ喜久ちゃん、おつりは喜久ちゃんが取っといてくれ。俺からのお年玉ってことで」
「いいんですか?それじゃあ遠慮なくいただきます。ありがとうございますおじさん」
「待て親父。息子にあげるよりも先に、喜久にお年玉か?俺にもよこせ。もちろん、さっ
き立て替えといた色紙代とは別にな」
「わかったわかった。じゃあ、服でも買ってやるよ」
「服なんかより現金でよこせっつーの!」
「わかったよ。ほれ、持ってけ泥棒」
 正当なことを言ってるはずなのに泥棒扱いされてなんとなく腑に落ちない俺だったが、
ともかく俺は親父が差し出した現金をかっさらった。見ると、一万五千円あった。
「それだけありゃ十分だろ?で、それはそれとして、おまえに服を買ってやりたいと思っ
てるんだが…」
「…あんた、なんでそこまで俺の服にこだわる?」
「そんな長身で顔もカッコいい男なのに、服のセンスが悪過ぎるんだよおまえ。だから、
一流芸能人の俺がコーディネートしてやろうと思ってさ」
「大きなお世話だ。…とは言え、買ってくれるっつーんなら買ってもらおうかな」
「よし決まりだ。明日、この時間にここに来い」
 そう言って親父は、時間と住所を書いたメモを俺に渡した。
「なんで店や時間を指定するんだ?」
「いろいろあるんだよ。それじゃあ、俺たちもう行くわ。強志、ラーメン、ものすごくう
まかったぞ」
「ごちそうさまでした〜」
 こうして、俺の親父と母さんは帰っていった。残った俺がため息をつく。
「はあ、本当疲れた。…俺も帰る」
「そう。気をつけてね。バイバイ健くん」
 こうして嵐のような元日は終わった。この後家に帰った俺は、再び克美さんたちと穏や
かな正月を過ごしたのだった。翌日に訪れる、さらなる嵐のことも知らずに−。

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