K’sストーリー第十章 バレンタインパニック(3)
 その日の放課後、俺は漫画部の部室にいた。克美さんに指定された時間まで家に帰れな
いので、ここで時間をつぶしているんだ。そしてこの場にいるのは、俺だけじゃない。
「おい健吾、このコミックの次の巻、どこにある?」
「間さん、それはこの漫画部の備品扱いでございます。部員でもないあなたが勝手に読ん
でいい物ではございませんよ。と言うよりなぜあなたがここにいるのでございますか?」
「固いこと言うんじゃねーよ柳沼。ちょっと時間つぶしにいるだけだろ。なあ健吾?」
 そう、ここには俺の他に、仁と柳沼がいる。ちなみに他の漫画部員はいなくて、俺たち
三人だけだ。
「まあ確かに仁に時間までここにいたらって言ったのは俺だけどさ、柳沼の言う通り、そ
こにある漫画本はこの部の備品だ。読むだけならともかく、散らかすのはやめろ」
「そうです間さん。あなたは一枚のCDを聞き終わったら、それを片付けてから次のを出
しませんか?僕はそのようにいたします。誰だってそのようにすると思われます」
「わかったわかった。片付けりゃいーんだろ片付けりゃ」
 そう言って仁は、読み散らかした漫画を片付け始めた。それをしながら、仁が俺に聞い
てきた。
「あー、そういや思い出した。健吾おまえ、昼休みの件、ちゃんと断れた?」
「ああ、もちろん。その娘も、一応は素直に受け入れてくれたよ。俺から見えなくなった
所で、泣いてたみたいだけど」
「いったい、何の話でございますか?東さんが女の子を泣かせたのでございますか?」
 柳沼が話に入ってきた。
「まあ確かに、俺が泣かせたって言えば泣かせたんだけどさ…。実は…」
「なるほど、それはいたしかたのないことでございますね」
「女の子を泣かすのは大罪…ではあるんだけど、この場合はしょうがないよな。よし、後
で俺がなぐさめてあげるか。あの娘、名前は何ていうんだ?」
「なんで無関係のおまえがなぐさめるんだよ。彼女の友達がフォローしてたから必要ない
と思うぜ。一応、名前は小早川心さん、一年だ。柳沼、同じ学年だけど、知ってるか?」
「小早川心さんでございますか…存じ上げませんね。少なくとも同じクラスではございま
せん。女子同士ということで、香菜さんならばご存知かもしれませんが…」
「もしも知り合いだったら、香菜ちゃんにもフォローしてもらうか…。あっ、おい二人と
も、そろそろ時間だぞ。今ここを出れば、ちょうどいい時間に家につく」
「よーし、それじゃ行くか。木本高校美男子三人衆、出発だ」
「…よくもまあ、自分のことを美男子などと言えるものでございますね」
 柳沼のツッコミには、俺も同感だった。だが仁は続けて言う。
「三人衆って言ってるんだから、おまえや健吾も入れてやってるんだよ。その俺の優しさ
に、感謝してもらいたいものだな」
「僕は、そのような物に入れていただきたくはございません」
「俺も」
「けっ、男には、それぐらいの気概が必要だと思うけどなあ。とにかく行くぞおまえら」
 こうして俺たちは、漫画部の部室、そして学校を後にした。

 俺達三人が片瀬家につくと、ちょうど、家を出てくる片瀬先生に出くわした。
「先生、お出かけですか?」
「ああ、お帰り東くん。結局、君たちのパーティの間は外にいることにしたよ。克美にも
いてもいいとは言われたんだが、それでもやっぱり居心地が悪いと思いから…。じゃあ三
人とも、楽しんでいきなさい」
 そう言って片瀬先生は行ってしまった。その後で、仁が言ってくる。
「おい健吾、早く中に入れさせろよ。もう待てねーぜ」
「わかったわかった」
 それで俺は玄関の鍵を開け、中に入った。
「ただいま帰りましたー」
 すると家の奥から、エプロンをつけた克美さんが出てきた。
「お帰り健吾くん。時間ぴったりだね。仁くんと柳沼くんも、こんにちは」
「こんちは、克美さん」
「こんにちは。本日は、どうぞよろしくお願いいたします」
「うん、よろしくね。あっ、三人とも悪いんだけど、もうちょっとだけ待っててくれるか
な?」
「いいですよ。それじゃ二人とも、俺の部屋で待ってようぜ」
 そう言って俺は、仁と柳沼を連れて自分の部屋に行った。
「そういえば、この家には何度かお邪魔させていただいたことがございますが、東さんの
私室に入らせていただきますのは、初めてでざいましたね」
 柳沼が言った。
「そうだっけ?まあいいや、適当に座っててくれ」
 そう言いながら俺は制服から私服に着替える。そんな中、仁が柳沼に聞いた。
「そーいやおまえ、今日のチョコの首尾は?」
「一応、義理と思われる物を5個前後いただきましたが、それが何か?」
「そうか、まあまあだな。まあ、どうやってもこの俺にはかないっこないんだがな!」
「別に競うつもりはございません。本来であれば、義理チョコとて0でよかったのでござ
います。本日これからのパーティで、香菜さんからいただけるのでございますから」
「ほう…」
 仁が感心したような声を出した時、部屋のドアをノックする音がした。
「健吾くーん、みんなー、用意できたからキッチンに来てー」
「わかりました克美さん。よしみんな、行くぞ」
 それで俺たちはキッチンに行った。そこにあるテーブルの真ん中に鎮座する、巨大な茶
色い物体。それを見た仁が声を上げる。
「で、でけー!こんなでかいチョコケーキ、初めて見たぞ!」
「ちょっとしたウェディングケーキ並みでございますね。もっとも、こちらのケーキは全
て食べられるようでございますが…」
「特大のチョコレートケーキ作るとは聞いてたけど、まさかここまででかいとは…さすが
は克美さんですね」
 俺たち男三人は、その大きさに驚くばかりだった。そしてそんな俺たちを見て、克美さ
んが得意がる。
「ふふーん、すごいでしょ?久しぶりにがんばっちゃった。だけど、作ったのはボクだけ
じゃなくて、香菜ちゃんと喜久さんも手伝ってくれたから、これはボクたちみんなの作品
だよ。よーし、それじゃあもう始めちゃおうよ!みんな、決めてた合言葉、わかってるよ
ね?合言葉は、ハッピー…」
「バレンタイーン!」
「そして、ハッピーバースデー俺!」
 みんなが声をそろえた後に言った仁の言葉に、仁本人を除く全員がガクッとなった。そ
んな俺たちを見て、仁が言う。
「なんだいなんだい、なんでみんなずっこけてるわけ?」
「なんでじゃねーよ!おまえがいきなり予想外のこと言うからだ!」
 俺は思わず言ったが、仁はまるで悪びれていない。
「いーじゃねーかよ、今日が俺の誕生日なのは事実なんだから。それに、その前にちゃん
と合言葉は言ったし」
「ダ、ダメだこいつ…」
 俺が思わず頭を抱えると、柳沼がこんなことを言った。
「それにしても間さんの誕生日が今日だったとは。異性好きなのも納得でございますね」
 すると、こう言われた仁が言い返す。
「おまえな、その言葉、全世界の今日生まれの人間を敵に回したぞ。俺が女の子好きなの
は、俺自身の性格であって、誕生日とは関係ねーぞ」
 で、こう言われた柳沼は−。
「確かにその通りでございますね。考えてもみれば、同じ日に生れたからといって同じ性
格になるなどということは、現実的にはありえないことでしょうし」
 だったら最初から、トラブルの火種になるような余計なことは言うんじゃねえよと俺は
思った。そしてそんな中、克美さんが言う。
「と、とにかく、無事パーティも始められたことだしさ、まずはそれぞれのカップルで、
本命チョコを渡そうよ」
「わたしと仁くんはカップルじゃないけど、とりあえず、ね。はい、どうぞ」
 先に言っておかないと後で仁にうるさく言われると思ったのか、喜久は前もって「自分
たちは恋人同士じゃない」ということを全員にアピールした。その割りには女の子三人の
中で最初にチョコを出したけど。ああ、さっさと終わらせたいってことか?とにかく、喜
久にチョコをもらった仁は思いっきり喜んだ。
「うおおおおおっ!ありがとう喜久さん!ありがとうっ!!」
 テンション高いなあ。ところが仁のヤツ、ここで急に落ち着き、喜久に言った。
「で、喜久さん、誕生日のプレゼントの方は?」
「それも後であげるから、ちょっと待っててよ」
「OK!」
 誕生日プレゼントももらえるとわかった仁は上機嫌だ。
「あの…」
 香菜ちゃんが言葉を発した。手にはチョコレートがある。
「これが、わたしから新平さんへの、です。…ど、どうぞ」
 そう言って柳沼にチョコを差し出した香菜ちゃんだったが、下を向いている。よくは見
えないが、顔も赤くなっていることだろう。ここにいる人間全員、二人が付き合っている
ことはもちろん知っているが、そんなメンバーの中でもやっぱり恥ずかしいのだろうか。
「どうもありがとうございます、香菜さん」
 香菜ちゃんからチョコを受け取る柳沼だったが、この時、俺は何か妙な違和感を覚えて
いた。何がどう違和感なのかはよくわからないが、何か変だ。そして、それを感じている
のは俺だけじゃないようだ。
「うーん、何か変な感じするなあ…。ねえ健吾くん、この二人どこか変じゃない?」
「克美さんも感じますか。俺も、どこがどう変なのかはわかりませんけど、感じるんです
よねえ…」
「そうかあ?俺は全然感じねーけど。それより克美さん、早く健吾にチョコあげて!それ
で、早くチョコケーキ食いましょうよ!」
「仁くんに言われなくても、もちろんあげるよ。はい、健吾くん!」
「ありがとうございます。おおっ、さすがにこれもでかいですね。今日俺がもらったどの
チョコよりもでかいです」
「確かに、そうだな。あの、泣いた娘のよりも」
 仁が、余計なことを言いやがった。そしてこの言葉に、克美さんが反応する。
「泣い…た…?健吾くん、女の子のこと泣かせちゃったの!?」
「そ、それは確かに事実です。実は、ある女の子に本気の告白受けちゃって、断ったら泣
かれちゃって…」
「こ〜く〜は〜く〜!?」
 克美さんの声が大きくなった。もしかして、やばい状況?それで俺は必死に弁解する。
「だから、断ったって言ってるじゃないですか!さっきも言いましたけど、断ったから泣
かれたんです!それとも何ですか、泣かせないように、OKすればよかったんですか?」
 俺も、ちょっと反撃してみた。
「そ、そんなことしていいわけないじゃない!そ、そうだよね、断ったから泣かれた、う
ん、正しいね、正しいことだよ」
「まあ仮にOKした場合でも、嬉し泣きをされた可能性もあるわけなのでございますが」
 柳沼のセリフだ。こいつといい、仁といい、どうして余計なことばっかり言うかな。
「ところで、告白してきた娘ってどんな女の子だったの?」
 喜久が聞いてきた。この娘まで余計な質問を…。でも、隠すようなことでもないと思っ
たので、答えることにした。
「ええっと、同じ高校の一年生。そうだ香菜ちゃん、小早川心さんって娘、知ってる?」
「えっ、小早川さんから告白されたんですか?隣のクラスです。家庭科とか体育の授業で
二クラスの女子が一緒になって、そこで同じ班になったことがあります」
「そうなんだ。悪いんだけどさ香菜ちゃん、次に一緒になった時、さりげなく様子探って
くれないかな?で、もし元気がないようだったら、なぐさめてあげるとかしてもらいたい
んだけど…」
「わかりました。ちょうど明日、家庭科の授業で一緒になるので、やってみます」
「お願いね、香菜ちゃん。さ、もういいだろ?もうこの話はやめにしようぜ!誰か、何か
別の話題出せよ!」
「それでは、昨日僕が見ましたおもしろい光景のお話でも」
 柳沼が口を開いた。さっきの件もあったので、また俺にとって都合の悪い話になるかも
と嫌な予感を感じたが、そうではなかった。
「昨日の夕方、僕は学校を後にしようとしていました。僕はそこで見たのでございます。
夕陽に染まった校庭の鉄棒で、ぐるぐると大車輪をしている、一人の男性を」
「あ、それ、体育の井久田源三先生だね。ボクも去年見たよ。聞いた話だと、毎年やって
るみたいだね。どうも、バレンタインのチョコ欲しいのアピールみたいなんだけど…」
「そこまでしてチョコが欲しいのかあの先生は…それとも、以前にそれやってもらえたか
ら、以来毎年やってるのか…仁、どっちだと思う?」
「どっちでもいいよ。それより、さっきから言ってるだろ、早く特大チョコケーキが食べ
たいって!それぞれの本命チョコは渡し終わったんだから、もう食べようよ!」
「そうだね。それじゃ、ボクが切るよ」
 こうしてようやくメインディッシュのチョコケーキが克美さんの手によって切り分けら
れた。まずは俺と仁、柳沼の男3人がケーキを一口食べた。その様子を、女の子たちが心
配そうに見ている。そして、最初に感想を言ったのは仁だった。
「う…うーまーいーぞー!」
「間さん、大げさ過ぎでございます。確かにこれまで食べたことのないほどにおいしいの
は事実でございますが、そこまで大きな声を出すようなことではないと思います」
「今日はこいつ、無駄にテンション高くなってるから…。でも、確かにうまいや。仁が叫
びたくなる気持ちも、わからないでもないな」
「やったぁ!」
 俺たちの感想を聞いた女の子たちが喜ぶ。喜久と香菜ちゃんなんかは、手を取り合って
小さく跳ねていた。このケーキのメイン担当の克美さんが笑顔で言う。
「やったやった。みんなに喜んでもらえたみたいで嬉しいよ。それじゃ香菜ちゃん、喜久
さん、ボクたちも食べてみようよ」
「そうですね。本当に仁くんが叫ぶほどおいしいか、自分たちでも確かめないと」
「わたしも、いただきます」
 そう言って女の子たちもケーキを食べる。一口食べた彼女たちの顔が一瞬にしてほころ
ぶ。いや、ほころぶと言うより、とろけると言った方が正しいぐらいの顔だ。
「う〜ん、もうカンペキ!もしかして、ボクがこれまで作った中でも最高傑作かも!」
「こんなにおいしくできるとは思わなかったわ。仁くんの叫び、嘘じゃないみたいね」
「克美さんがメインだったとは言え、わたしの手でこんなケーキが作れるなんて…」
 3人の女の子たちも、自分たちが作ったケーキに大満足のようだ。笑顔のままで、克美
さんが言ってきた。
「さあ、このケーキがおいしいのもわかったことだし、まだまだあるからどんどん食べて
ね!それに、ケーキ以外の料理もあるからね!」
「おーっ!」
 こうして、にぎやかなバレンタインパーティは続くのであった。

 片瀬家でのバレンタインパーティもそろそろ中盤。チョコレートケーキやその他のおい
しい料理で腹がいっぱいになってきたころ、仁が言った。
「さて、食うもんも食ったことだし、喜久さん、そろそろ誕生日プレゼントの方もちょー
だい!」
「わかったわ。ちょっと待っててね」
 そう言うと喜久はキッチンから別の部屋に行ってしまった。
「わざわざ別の部屋に行くってことは、結構な物なのかな?もしかして!」
 仁は、何かを思い付いたようだ。
「自分をラッピングしてくるのかも。で、『わたしがプ・レ・ゼ・ン・ト!』とか…」
「そんなこと、あるはずがございません」
 柳沼がバッサリと斬り捨てたが、俺も同感だった。喜久はそんなことをするタイプの女
の子じゃないということを知っているからだ。で、そんなことを思っているうちに喜久が
戻ってきた。が、何も持ってない。いや、よく見ると、手に封筒があった。彼女が仁に言
う。
「去年と同じで芸がないかなあって思ったんだけど、今年も遊園地のペアチケットにした
わ。もちろん、誰と行くかは仁くんの自由」
「おお、ありがとう喜久さん。それじゃ俺も去年と同じで、君とデートさせてもらおうか
な。もちろん、俺がそう言うのも想定内なんでしょ?」
「まあ、それはそうね。結局、全部去年と同じになっちゃうけど…」
「ノンノンノン、俺の中にある喜久さんに対する気持ちは、去年より大きくなってるぜ。
喜久さんの方も、そうじゃないの?」
「さあ、それはどうかしらね」
 そう言って喜久が軽く笑った。
「でだ!」
 急に仁が言った。
「他に、俺に誕生日プレゼントくれる人はいる?」
 この質問に答える人間はいなかった。
「何だい何だい、誰も用意してきてくれてる人いないわけー?」
「そりゃそうだろ。今日がおまえの誕生日だって知ってたの、喜久と俺しかいなかったん
だから」
「ああ、それもそうか。それじゃあ俺の誕生日のことを知ってた健吾、おまえは俺に何を
くれるんだ?」
「悪い、何も用意してない。後で“鬼賀屋”のラーメンおごるから、それで勘弁しろ」
「おまえそれ、去年と同じじゃねえかよ。まあいい、それで手を打とう。それと、他のみ
んな!これで俺の誕生日わかったんだから、来年はよろしく頼むぜ!」
「その日まで間さんとの付き合いがありましたならば、考えさせていただきましょう」
 柳沼の言葉だった。意外と義理堅いのかもなと俺は思った。俺がそんなことを思ってい
ると、急にポケットの中に入れておいた携帯電話が振動を始めた。誰かからの着信のよう
だ。ポケットから出して画面を見てみると、そこには出ていた文字は−。
「ブレイドプロダクション…基本、ここからの電話って嫌な予感しかしないんだよな…」
「バカおまえ、もしかしてまたゼンジーさんとの共演の話かもしれないぞ。早く出ろよ」
「おまえに言われなくても出るよ。じゃあちょっと、隅の方で…」
 そう言ってキッチンの隅の方に行って、俺は電話に出た。
「もしもし」
「ああ、ごっち?けやきよ。お久しぶり」
 電話から、大人の女性の声がした。
「けやきさんって…ああ、剣崎社長の娘さんの。以前に一度、電話で話しましたよね。そ
れで、今日はどうしたんです?」
「実はね、うちの事務所に、君宛てのチョコレートがたくさん届いてるのよ。こっちで勝
手に処分するわけにもいかないから、連絡したんだけど…そっちに届けていいかしら?」
「こっちに?うーん…それって当然、『東山健五郎』としての俺宛てですよね?本来だっ
たら、そーいったのはもらいたくないんですけど…だけど、送ってくれた人に悪いから、
こっちに届けてください」
「わかったわ、それじゃあ、明日ね」
 それで電話は終わった。みんなの所に戻ると、いきなり仁が聞いてきた。
「どうだ健吾、ゼンジーさんからのお誘いか!?」
「全然はずれ。事務所に東山健五郎宛てのチョコレートが届いてるから、こっちに送るっ
て。つーわけで克美さん、明日来ますんで、受け取っといてもらえますか?」
「うん、わかった。でもなんで『俺宛て』じゃなく『東山健五郎宛て』って言ったの?」
「だって、あれは俺であって俺じゃないんですもん。あれは俺だってのを、認めたくない
んです」
「意外と固いわねえ健くん。ところでブレイドプロダクションって、『新三捕物控』の主
演やってた、剣崎静馬が社長をやってる所よね?」
 喜久が聞いてきた。
「さすが喜久、時代劇に造詣が深いね。その通りだよ」
「そうかあ。いいなあ健くん、東山健二郎の息子だし、太野垣様の事務所の所属だし」
「タ、タノガキサマ?誰それ?」
 いきなり聞いたことのない名前が出てきたので、俺は喜久に聞いてみた。
「太野垣様っていうのは、一部で使われてる、剣崎静馬の愛称なの。あの人がデビューし
たてのころに出演した時代劇が数年前にDVDになったんだけど、その中で、『裏切った
のか貴様!』っていうセリフがどうやっても『ルラギ、タノガキサマ!』にしか聞こえな
い場面があるってネットで話題になって、それで一部の人はあの人のことを太野垣様って
呼ぶようになったの。本人が知ってるかどうかはわからないけど」
「ああ、そうなんだ。デビューしたての話が、数十年後にネタにされるとはな…」
 剣崎さんも大変だなと俺は思ったのだが、俺も次の日に結構大変なことになるとは、そ
の時は知る由もなかった。

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