君の手を握れば

「ねえウェンディ、ウェンディ、ねえってば!」
 ここは水族館。俺はさっきから何度も彼女の名前を呼んでいた。けど、ウェンディは亀のいる水槽にへばりついて、その中をじっと
見ている。たぶん俺の声が聞こえていないんじゃなくて、俺のことを無視しているんだ。
「ねえウェンディ、他の女の子に見とれてたのは謝るよ。でもほんのちょっとだよ。そんなにすねることもないだろう?」
 なんだか言いわけがましいが、俺はそう言った。するとウェンディはこっちを向いてくれた。俺はほっとした。だけど、彼女はまだ
むっとした顔をしていたんだ。そして一言−。
「ちょっとじゃありません。敬さん、ずーっと長い間、あの女の人のこと見てました」
 そう言うとまたウェンディは水槽の方を向いてしまった。
「えーっと…」
 俺は返す言葉がなくなってしまった。だって、本当に俺はほんのちょっとだけしか他の女の人のことを見てないんだから。それ以外
の時間は何をしてたかって?それは…ウェンディのことを見てたんだ。それなのに彼女は誤解をしている。ちゃんと説明すればわかっ
てくれるかもしれないけど、そんなこと恥ずかしくて言えない。

 事の起こりは、昨日、この街についてすぐの出来事だった。ライバルパーティにぶちのめされたせいで俺たちは金欠状態になってし
まった。そこで俺はアルバイトをして金を稼ぐことにした。
「ウェンディ、俺と一緒に市場へバイトしに行こう!」
「まあ…いいですよ」
 そうして俺たちは市場でバイトをすることになった。でも俺はなんだかウェンディが心配になった。だから俺は横目でウェンディの
様子を見ながらバイトをした。しばらくそんなことをしていたら、大きな箱を運んでいた彼女がふらついた。その時、俺も同じように
箱を運んでいたんだけど、それも忘れて彼女に駆け寄ろうとしてしまったんだ。
「ウェンディ、危ないいいいいいいい!?」

−ドンガラガッシャーン−
 何と、俺の方が転んでしまった。箱の中身が派手にぶちまけられてしまった。雇い主がやってきて俺に言う。
「おいおい兄ちゃん、何やってるんだよ?」
「すみません…」
「気をつけてくれよ。失敗したら給料から棒引きするからな」
 そう言うと雇い主は行ってしまった。ところでウェンディはと言うと、少しふらついただけでその後は何事もなく箱を運んだ。そし
て、すっ転んでいた俺に気がついた。
「敬さん、何やってるんですか?」
「い、いやあ、ちょっと転んじゃって…」
「だ、大丈夫ですか!?どうして転んじゃったんですか!?」
「それは…」
 まさかウェンディを見ていたからだなんて言えるはずがないから、俺はごまかそうと彼女から目をそらした。ところが、運の悪いこ
とにその視線の先にナイスバディできれいな女の人(しかも露出度高し)がいたんだ。
「あっ…」
「あっ…。敬さん、あの人を見てたせいで転んじゃったんですか?」
「いや、そうじゃなくてね…」
「へえ、そうだったんですか」
「ウェンディ、俺の話を聞いてくれよ!」
「さ、仕事に戻らなきゃ」
 そしてウェンディは仕事を再開した。それでも俺はしつこく彼女に話しかける。
「だからさ、ウェンディ…」
「兄ちゃん!さぼってないで働いてくれよ!」
「す、すみません…」
 俺は雇い主に怒られてしまった。それで俺も仕事に戻ることにした。そしてそれから俺は雇い主のすきを見てはウェンディに話しか
けようとしたんだけど、彼女は俺を無視して仕事を続ける。しょうがないので俺も黙々と働いた。結局、それ以降その日に俺とウェン
ディが会話をすることはなかった。

「なあみんな、悪いけど、この街を出発するのは明日まで待ってくれないか?」
 次の日の朝、俺はこんな提案をした。これに対しみんなは、俺のために旅をしてるんだし、その俺がそう言うのなら…と言ってくれ
た。そして俺とウェンディを残しみんな出かけていった。さらにそのウェンディも−。
「私も買い物にでも行ってきますから、敬さんはゆっくり休んでいてください」
 そう言って出かけてしまおうとしたんだ。俺はそれを引き止めた。
「ああっ、ちょっと待って!出かけるんだったら二人で出かけようよ!」
「でも、敬さんが疲れてるって言ったから出発を遅らせたんですよ?」
「あれは嘘!ウェンディと二人きりになりたくて…」
「二人きりになって、私に何かするつもりだったんですか!?」
 ウェンディのツッコミが厳しくなる。
「何かするって言えばするけど…ああっ、そうじゃなくて!俺はね、ウェンディとデートしたいの!」
「デート…ですか?まあ、いいですけど…」
「よーし、それじゃ行こう!」
 それでようやく俺たちは二人で出かけることができた。宿屋の人にこの街には大きな水族館があると聞き、お魚が好きなウェンディ
にぴったりだろうと思いそこへ行った。俺の思惑通り彼女は喜んで、すっかり笑顔になってくれた。
「敬さん、今日はありがとうございます。あっ、飲み物か何か買ってきましょうか?」
「それじゃお願いしようかな」
 そうしてウェンディは俺を残し売店へ行った。俺はその場で彼女を待ったのだが−。
「はーい、そこのお兄さん」
 いきなり、女の人が俺に声をかけてきた。結構美人だ。
「お兄さんって俺のこと?」
「そう、あなたよ。何してるの?暇ならアタシと遊ばない?」
 もしかして俺はナンパされてるのか?俺もまんざらでもないなとか思ってしまった。女の人は俺のことをジロジロと見る。
「変な服着てるけど、顔はまあまあタイプよ、あなた。どう、お茶でも?」
 俺は少し迷ってしまった。本当ならほんの少しでも迷っちゃいけなかったんだろうけど…。とにかく俺は女の人にこう言った。
「悪いけど、俺、別の女の子と来てるから…」
「なーんだ、彼女連れだったんだ。それじゃバイバイ」
 そう言うと彼女は行ってしまった。ここでこの人のことをすっぱり忘れてしまえばそれでよかったのだろうが、未練があったのか、
俺は彼女の後ろ姿をじっと見ていた。そんな俺に天罰が下った。
「あの…敬さん?」
「うわあああっ!?」
 いつの間にかウェンディが戻ってきていたんだ。彼女は俺にたずねる。
「いったい何を見てたんですか?この先にあるのは…」
 そう言ってウェンディは俺の視線の先を見た。そしてあの女の人に気がついてしまったんだ。
「!!…敬さん、あの女の人のことを見てたんですか?」
「あっ、いや、別にじーっと見てたわけじゃ…」
 俺が弁解をしようとすると、ウェンディは買ってきた飲み物のコップを、俺の分だけでなく彼女の分まで一緒に差し出した。
「何これ?」
「私いりませんから、敬さん一人で全部どうぞ」
 そうして二つのコップを俺に押しつけると、俺に背を向け、亀のいる水槽にへばりついてしまったんだ。

 …というわけで冒頭の部分につながるんだけど、実はもうすでにあれから五時間は過ぎている。それだけ長い間ウェンディは水槽の
中の亀を見ていて、俺はその彼女を見ている。とは言っても、俺が見ているのはウェンディの後ろ姿だけ。彼女がどんな顔をしている
のか知っているのは、水槽の中の亀たちだけだ。
「ウェンディ、こっち向いてよ!ねえ、ウェンディってば!」
 俺がそう言っても彼女は知らんぷり。こっちを向こうともしない。と、その時−。
「あの、すみません」
「はい?」
 声をかけられ俺が振り返ると、それはこの水族館の係員の人だった。
「悪いんですけど、もうそろそろ閉館の時間なんですよ」
「えっ、そうなんですか?わかりました。ほらウェンディ、もう帰るよ」
 俺は彼女にそう言ったんだけど、ウェンディの返事は−。
「敬さん、先に帰ってください。私、ギリギリまでここにいますから」
 このアマ…!そんな、本当は思っちゃいけないことを思ってしまった。だけど、ここで怒ってしまったら本当に俺たちは修復不可能
になる。ウェンディに嫌われたまま旅をするなんて嫌だ。そこで俺は、そっと彼女の手を握ったんだ。
「あっ…」
 小さな声と共にウェンディがこっちを向いてくれた。あぜんとした表情をしている。俺は言った。
「帰るよ、ウェンディ」
「はい…。あの…この手…」
 ウェンディの顔が赤くなっていく。
「ごめん。こうでもしないと振り返ってくれないと思って…。俺と手つなぐの、嫌?」
「そんなことありません!そんなこと…」
 彼女の声が小さくなっていく。そこで俺はこう言った。
「嫌じゃなかったらさ、このままで帰ろうか?」
「は…はい!」
 ようやくウェンディが笑ってくれた。これでよかったんだと俺は思った。

 −少し照れるけど、手をつないで帰ろう−
<了>

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