風茶店

 僕は赤塚零といいます。都会から離れた小さな村に住んでいます。高校3年生で、あと半月もすれば卒業です。
 この村にはほとんど何もありません。あるのは少し大きめな山と、それとこれまた少し大きめの川ぐらいです。あとは何もありませ
ん。でも、僕はそんなこの村で生まれ、育ちました。僕はこの村が好きです。この小さな村で一生を過ごすのも悪くないなと思ってい
るほどです。それくらい好きなんです。
 でも、この村と同じぐらいに好きな物…いえ、人がいます。今井舞という、僕の幼なじみの女の子です。実は僕は昔から彼女が好き
でした。子供心に結婚の約束をしたこともあります。今でもその気持ちは変わっていません。彼女もそのことを知っていますが、僕の
ことを悪くは思ってはいないようです。
 でも、僕と舞には、たった一つだけ折り合いが合わない所があります。それは舞がこの村を大嫌いだということです。

何もない 何もない 何もない
ここには何もない
この村には何もない
わたしはこの村が大嫌い
大きくなったらここを出ていく

 これは、舞が小学校高学年のころに書いた詩です。このころから彼女がこの村を嫌っていたことがわかります。そして、この詩の通
り、舞は高校を卒業したら都会の大学に行くことがもうすでに決まっています。僕は高校卒業後もここに残ることになっていますが、
僕は彼女と一緒にいたいんです。舞のことが好きだからです。彼女もそんな僕の気持ちに感づいていて、こんなことを言いました。
「わたしも零くんのことは好きよ…でも、あなたのことを好きである以上に、わたしはこの村が大嫌いなのよ!」
 この言葉で、僕は喜びと悲しみを同時に感じました。舞が僕のことを好きだと言ってくれたのはとても嬉しいことです。その中に恋
愛感情はないかもしれませんが、それでもいいんです。とりあえず、僕のことを好いてくれているのならば…。でも、舞がそれ以上に
この村を嫌っているということは、この村で生まれ育ったことを誇りにしている僕にとっては、ものすごく大きなショックでした。ど
うして彼女はここまでこの村を嫌うのでしょう。やはり、何もないからなのでしょうか。

 そして、とうとう舞が都会に旅立つ前日となってしまいました。その日、僕は彼女を呼び出しました。小さいころ…まだ本当に小さ
くて、まだ舞がこの村を嫌っていなかったころに、二人で遊んだ川のほとりにです。
「話って何よ?最初に言っておくけど、零くんが何を言おうと、わたしは絶対に都会に出るんだからね。こんな村、大嫌いよ!」
 僕が話を切り出す前にこんな先制攻撃を受けてしまいました。どうやら、彼女の決心はそうとう固いようです。僕ごときが何か言っ
たところで、彼女の心を変えることはできないようです。
「いや…その…」
 僕はそんな風に口ごもってしまいました。そして僕も舞も、しばらく何も言えませんでした。その時、急に一陣の突風が吹いてきま
した。とても心地よい風です。小さいころから僕はこの風を何度も感じてきました。目を閉じて風を感じていると、突然舞が口を開い
て、こんなことを言いました。
「…わたしは死ぬほどこの村が憎らしいの。けどね、そんなこの村の中で、二つだけ好きな物があるの。それはね、零くんと、さっき
吹いた風…この二つだけは大好き…」
 嬉しい言葉でした。僕のことを好きと言ってくれたこともそうですが、僕が好きなあの風を好きだと言ってくれたことも、また嬉し
いことでした。
 でも、舞は続けて言いました。
「…でも、この二つだけじゃ、わたしをこの村にとどまらせることはできないわ。もっともっといろんな点でわたしはこの村が大嫌い
だから…」
 舞の声はだんだんと小さくなっていきました。なぜそうなったのかは僕にはわかりません。きっと、いろいろな想いが彼女の心の中
を巡っていたのでしょう。
「‥‥‥‥」
「‥‥‥‥」
 再び僕たちは沈黙しました。さっきの風のように、この沈黙を破る何かがない限り、僕も舞も何も言わないでしょう。
「ねえ零くん、少し歩こうか?」
 急に舞がそう言いました。
「うん、いいよ」
 そして僕たちは歩き出しました。どうして彼女はこんなことを言い出したのでしょうか。もしかしたら、自分をここにとどまらせて
くれる何かを探したかったのでしょうか。そう、僕やあの風と同じような何かを−。

 僕と舞は、今までに行ったことのない場所に行ってみようと、村じゅうを歩いてみることにしました。やはり舞は何かを探したいの
でしょうか。しかし、この村は本当に小さな村で、18年も住んでいれば隅の隅まで探れる、行ったことがない場所なんてあるはずも
ない。僕はそう思っていたのですが−。
「あっ、零くん、あれ…」
 川に沿って歩いていた僕と舞でしたが、彼女が一つの家を指さしそう言いました。周りには何もなく、その家だけでした。
「零くん、あれってただの家かしら?」
「僕にもわからないよ。だけど、この村にまだ知らない場所があったなんて…とにかく行ってみよう」
 僕と舞はその家に向かって歩いていきました。近づいていってわかったのですが、それはただの民家ではなく、小さな茶店でした。
茶店とは言っても、『風茶店』という古ぼけた看板が出ているだけで、それがなければわからないほどでした。
「こんな所にお店があったなんて…」
 僕も舞もそんなことを言いました。
「舞、入ってみる?」
「そうしようか…」
 僕たちはお店に入りましたが、お客は誰もいませんでした。ただおばあさんがいるだけでした。そのおばあさんもまるで死んだよう
に眠っています。
「零くん、あの人がここの…?」
「そうだろうね。でも眠ってるみたいだ…。起こしちゃ悪いし、やっぱり出ようか?」
 僕たちがこんなことを言っていると、そのおばあさんが目を覚ましました。
「あれっ、お客さんですか?はいはい、どうもすみませんねえ…」
 おばあさんが僕たちの方に歩いてきました。その歩き方も、なんだかぎこちありません。転びそうなので僕はおばあさんの肩を持っ
てあげようとそちらに行きました。
「おばあさん、大丈夫ですか?」
「へえへえっ、どうもすみませんね。なんせ、しばらくぶりのお客さんなもんで…」
 僕たちは靴を脱いで座敷に上がりました。何があるんだろうと思ってメニューを見てみましたが、店の外の看板と同じように古ぼけ
ていて、ほとんど読めません。ただ、緑茶と団子という文字だけは読めたので、僕も舞もそれを頼むことにしました。
「へっ?はあっ、お茶と団子ね?へえっ…」
 おばあさんはそれを持ってこようと店の奥に消えていきました。それから、僕と舞はこんな話をしました。
「零くん、このお店って…」
「うん、こんなこと言っちゃ悪いけど、つぶれる寸前だよね。あのおばあさんも…」
 そのうち、おばあさんが店の奥から出てきました。今度もまた、さっきと同じようなよたよたとした足どりです。
「どうもすみませんねえ。なんせ、しばらくぶりのお客さんなもんで…」
 おばあさんはさっきと同じことを言いました。そして僕たちのいるテーブルにお茶と団子を置くと、その側に座りました。
「他にお客がいないからここにいさせてもらいますよ。邪魔だったら言ってくだされ。若い恋人同士には、二人きりで話したいことも
あるでしょうから…」
 僕も舞も何も言いませんでした。もちろん、僕たちはそんな関係ではないのですが、そう言われても否定したくない気持ちが僕たち
にはあったのでしょうか。
「あの…」
 舞が口を開きました。
「はいはい、何でしょうか?」
 おばあさんは耳をそばだてるようにしています。
「こんなこと聞いちゃ失礼かもしれませんけど…儲かってますか?」
 この質問に、おばあさんはため息をついてから小さな声で答えました。
「見ての通りですわ。最近、だあれもこの店に来てくれないんですわ。あんたたちは、一週間ぶりのお客さんなんです。その前にお客
が来たのは…二十日ほど前でしょうか。もう全然ダメなもんですから、30年間続けたこの店を今日閉めようと思ってたんです。きっ
と、あなたたちが最後のお客さんになるんでしょうな…」
 これを聞いた僕は、おばあさんにこんなことを言ってしまいました。
「閉めるって…宣伝とかしたんですか?」
「そんなことやってもムダですわ。だって、この村から人がどんどんいなくなってるんですもの…。ただでさえこんなへんぴな場所に
あるのに、村自体に人がいなくなったら、もうどうしようもありませんわな…」
 僕も舞も何も言えませんでした。事実、僕たちも18年間、この店の存在に気がつかなかったのですから。その時−。
「きゃっ!」
 舞が声をあげました。突然、突風が吹いてきたのです。さっき川のほとりで吹いたあの風よりも強い風でした。
「強い風だなあ…」
 僕はそうつぶやきました。
「この風が…」
 おばあさんがぽつりと言いました。
「この風がこの店のただ一つの名物ですわ。これしかありません。この村と同じで…」
「この村と同じ?」
 舞がおばあさんにたずねました。
「はい…。この村の名物と言えば、ここから見えるあの川と山ぐらいのもんです。両方とも自然の物です。さっき吹いた風もまた自然
の物…。しょせんここの名物は人が作り出せるものではなく、自然によって作られた物でしかないのです…」
 ここでおばあさんは一息つきました。そしてこう続けたのです。
「何もないこの店に客が来ないように、自然しかないこの村を出ていく若者が後を絶たないのも当然のことかもしれませんな…」
 そんなおばあさんの言葉を聞いて舞はドキッとしたようです。彼女も、おばあさんが言った若者の一人だったからです。
「…しゃべり過ぎましたわ。あんたら、そのお茶と団子代はただでええですわ。こんな年寄りの話を聞いてくれて、ありがとう…」
 そう言うとおばあさんは目を閉じてしまいました。そしてぴくりとも動かなくなってしまったのです。
「零くん、もしかして、死…!」
「そんな!おばあさん、おばあさん!」
 僕はおばあさんの体をゆすりました。するとおばあさんは目を開けてくれました。
「何ですかや…。寝てるだけですわ。あんたらが思ってるような最悪の事態にはなりませんから安心してくだされ…」
 そしてまたおばあさんは目を閉じました。今度は寝息をたてています。僕と舞は安心しました。

 僕たちは店を出ました。そして帰ろうと家路を急ぎましたが、しばらく僕も舞も黙っていました。歩いていると、僕の心の中にこん
な不安がめばえてきました。もともと、舞をこの村にとどまらせるために村中を歩いていた僕たちでした。だけど、あの『風茶店』に
入っておばあさんの話を聞いてしまったおかげで、舞がよけいにこの村を嫌ってしまった気がするのです。ところが、急に舞が足を止
めました。そして僕にこんなことを言ったのです。
「零くん、わたしは都会に行くわ」
 やはり舞をこの村にとどまらせることはできないようです。そうすることのできる何かはやっぱり見つからなかったようです。あの
茶店に、それはなかったようです。でも、次に舞はこんな意外なことを言ったのです。それは本当に意外な言葉でした。
「とりあえず大学に行くの。四年間ね。でもその後はわからないわ。もしかしたら帰ってくるかも…」
 僕は自分の耳を疑いました。あれほどまでにこの村を嫌っていた舞が、大学生活の後に帰ってくるかもと言ったのです。
「舞、帰ってくるの…?」
「わからない…。もしかしたらよ。でも、絶対に帰ってこないってわけじゃないから…。じゃあね、零くん!」
 そう言って舞は走っていってしまいました。僕はしばらくそこにたたずんでいました。その時に考えていたのは、舞の気持ちです。
彼女があんなことを言ったのは、あの『風茶店』のおばあさんの話のおかげなのでしょうか。僕には何も言えません。ただ一つ言える
のは、舞が少しだけこの村を好きになってくれたということです。これだけは間違いのないことでした。

 翌日、舞は都会へと旅立ちました。僕は見送りには行きませんでした。行くと何かが起きてしまうような気がしたからです。
「これ、舞ちゃんから」
 舞の最後の言葉が、その日彼女を見送りに行った友達が手渡してくれた手紙により僕に伝えられました。手紙といっても、一遍の詩
が書かれているだけのものでした。その詩とは−。

何もない 何もない 何もない
ここには何もない
この村には何もない

 これは、舞が以前に書いた物でした。なぜ彼女はこの詩を出してきたのでしょうか。わかりませんでした。でも、この詩はここで終
わってはいなかったのです。続きがありました。

何もない 何もない 何もない
何もないけど 君がいる
何もないけど 風がある
何もないけど やっぱり好き

 この後半部分は、以前の物とはまるで違っていました。ここを読んで僕は舞がこの詩を書いた理由がわかりました。彼女は昨日のお
ばあさんの話で、この村を好きだったかつての自分を思い出したのでしょう。だから、そのことを僕に伝えたくてこの詩を書いたのだ
と思います。そんなことを思うと、僕の頬は涙でびしょ濡れになりました。

 …と、これは十年前の話。今では僕はこの村でのんきに平和に暮らしています。あの時の言葉通り、四年間の大学生活を終え、この
村に帰ってきた舞と共に−。

<了>

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