影狩人・5(後編)

前編のあらすじ>
 『闇の力』と呼ばれる特殊能力を持つジョートショップの青年彰は、自分の中にいるシャドウに、エンフィールド大武闘会に彰と同
じ力を持つ『闇の者』が出ると聞かされ、その真意を確かめるために自分も大会に出場した。一回戦でマリアを倒した彰は準決勝まで
勝ち進み、そこで自警団のアルベルトも打ち倒したのであった。

「しつこいなおまえは。決着はついただろうよ?」
「大武闘会での決着はな!だがさっきの貴様の態度は許せん!たった今から次のバトルだ!」
 コロシアムの闘技場から控え室に続く通路で、彰とアルベルトが何やら口論をしていた。
「だからなアルベルト、俺はこの後決勝が残ってるんだよ。こんな所で無駄な体力使いたくないんだ」
「関係あるかそんなの!どうせ決勝では隊長にボコボコにされるんだ、その前にオレがやってやる!」
「何だよそのムチャクチャな話は!」
「やめないか二人とも!!」
 突如、彰とアルベルト以外の人間の声がした。彼らが見ると、そこにはリカルドがいた。
「た、隊長…」
「アル、おまえは何をこんな所で醜態をさらしているのだ?」
「申し訳ありません…」
「やーい、怒られてやんの」
 そう彰に言われたアルベルトが彼のことをにらみつけた。このまま殴りかかってやろうかとも思ったが、リカルドの前でそんなこと
はできなかった。そして次にリカルドは、彰に向かって言った。
「彰君、君も君だ。試合の内容は素晴らしかったが、最後にアルベルトに対して取った行動はいただけない物があるな」
「はいはい、わかったよ。あんたに言われちゃ、もうしねえ」
「何だ彰、隊長に隊してはずいぶん素直じゃねえか」
「このおっさんに歯向かおうなんてヤツはこの街にいねえよ。ま、試合で戦うってのなら話は別だけどな」
「そうだ、試合だ!隊長、あのネイラスなんて無名の選手は一撃で倒して、続いて決勝でこいつを倒してください!」
「そうも行かないだろう。あの人だって私たちと同じく準決勝まで勝ち残ってきた強者なのだからな」
「おほめに預かりまして、光栄です」
「!?」
 彰たち三人が驚いた。いつの間にか彼らのすぐ後ろに、ネイラスが来ていたのだ。
「オレに気配をさとられずここまで近づくなんて…」
「これでわかったろう、アル。世の中にはまだ見ぬ強者がいるのだよ」
「ははは、私はそんなに強くありませんよ」
 そう言ったネイラスと彰の視線が合った。軽く微笑むネイラスだったが、その時彰は奇妙な悪寒を覚えた。
(な、何だ今の!?)
 その彰の心など他の三人は知らない。いや、もしかしたらネイラスは知っていたかもしれないが、それを表には出さなかった。そし
て彼はリカルドに言う。
「それでは闘技場に出ましょうか、リカルドさん」
「ええ、そうしましょう」
 こうしてリカルドとネイラスは彰たちが進んできた通路を逆に歩いていった。
「隊長、お供します!セコンドをやらせてください!」
 そう言ってアルベルトも彼らに続く。残った彰が、こんなことをつぶやいた。
「今の感覚…まさか…?いや、それだけで判断するのはちょっと早計か…。ともかく、あの人がどんな戦い方をするのか見とかねえと
な…」
 そして彰は客席に周った。そこで彼はトリーシャとマリアを見つけたので、彼女たちの所へ行った。
「よ、二人とも」
「あっ、彰さん。お疲れ様。大丈夫、ケガとかしてない?」
「お疲れ様。さすがは彰、やったわね」
 二人の女の子に祝福を受ける彰。
「ああ、本当に疲れたぜ。アルベルトのヤツ、あんなに強いなんてな…」
「でも彰さん、そのアルベルトさんに勝ったんだよ」
「まあ、今回はな。それよりも問題なのは今から始まる試合だ」
「何が問題なの?どう考えたって、お父さんの勝ちだよ!」
「普通に考えりゃあな。でも、俺の予感が当たってた場合は、もしかするともしかする…」
「ほえ?彰の予感…?」
「ああ、いやいや、何でもねえ。忘れてくれ」
「何か変な彰」
 彰たちがそんな話をしているうちに、闘技場にリカルドとネイラスが出てきていた。向かい合い、眼光をぶつけ合う二人。
「あれ?何か、お父さんの様子が変だ…」
 さすがはリカルドの一人娘のトリーシャである。実際、彼の額には妙な脂汗が浮かんできていた。そして次の瞬間、リカルドは会場
中の全ての人間が自分の耳を疑う言葉を言ったのである。
「…すまない、棄権します」
「えっ…?」
 もちろん審判も自分の耳を疑った。
「リカルドさん、今、何と言われました…?」
「だから、棄権すると言ったのです。私の負けです」
 会場中に大きなどよめきが起こった。だがリカルドはそのどよめきを背に受けながら、何も言わず控え室に戻っていってしまった。
彼のことをアルベルトが追いかける。
「彰さん、ボク、お父さんと話してくる。これまでの試合でどこか痛めたのかもしれない!」
「俺も行くよ。マリア、悪いけど席取っといてくれ」
「う、うん…」
 こうしてトリーシャと彰はリカルドたちのいる控え室に行った。そこではアルベルトがリカルドを問い詰めていた。
「隊長、なぜです!なぜ突然棄権を!?」
「なぜ、か…。実を言うと、明確な理由がわからんのだ。強いて言えば、本能、か」
「本能だって?」
 思わずトリーシャが言った言葉に、リカルドたちが彼女と彰の存在に気がついた。
「むっ?何をしに来たのだ、二人とも?」
「トリーシャがな、あんたがどこかケガしたんじゃないかって心配して様子見にきたんだよ」
 彰がトリーシャの代わりに答えた。
「そうか、それはすまなかったな。だが、別にケガなどはしていない」
「どうやらそうみたいだな。で、おっさん。あんたがさっき言った本能ってのは?」
「うむ…私は確かに感じたのだ。あのネイラスさんから、言いようのない奇妙な『気』をな…。そしてそれを感じ取った私の本能が、
彼と戦ってはいけないと告げたのだ」
「な、何ですかそれは!?隊長ともあろうお方が臆病風に吹かれたと言うのですか!?」
「身もふたもない言い方をしてしまえば、そうなるのかもしれないな。…ところで彰君、君は決勝戦でネイラスさんとぶつかるわけだ
が、戦うつもりなのか?」
「ああ、もちろんだ」
「やめとけ彰、隊長に勝てない相手に、貴様なんぞが勝てるはずがない。それとも何か?貴様、自分は隊長よりも強いとでも思ってい
るのか?」
「俺がおっさんより強いかどうかは知らねえが、ヤツを倒せるのは俺しかいない。…なあ、ネイラスさんよ?」
 彰が控え室の入り口に向かってそう言った。リカルドやアルベルトたちがそちらを見ると、そこにはネイラスが立っていた。
「あいつ、またオレの気づかないうちに…」
 そんなことを言うアルベルトの横をすり抜け、ネイラスはリカルドに歩み寄る。そしてこんな言葉を口にした。
「リカルドさん、あのような形で勝負がついてしまって非常に残念です。大変お強いとお聞きしていたのですが…」
「いえ、私こそ驚きです。まさか私に恐怖を抱かせる人間が存在したとは…」
「果たしてそれは恐怖でしたかな?」
 ネイラスが言ったその言葉に彰を除く人間が奇妙な顔をした。
「ネイラスさん、それはどのような意味ですかな?」
「いえいえ、あまり深く考えない方がいいですよ。ところでみなさん、申し訳ないのですが、この場を私と彰さんの二人だけにしてい
ただきたいのです。よろしいですか?」
「ちょっと待ってくれ。あんた、何の権限でそんな…」
 そう言いかけたアルベルトを彰が制した。そして彼は言う。
「悪いけど、俺からも頼む。俺もこの人に話があるんでな」
「君からも、か…いいだろう。よしみんな、外に出るぞ」
「お父さんが言うんじゃしょうがないね。行こう、アルベルトさん」
「むう、隊長には逆らえん…」
「ご理解ありがとうございます。それと、部屋の外で盗み聞きなどというまねもしないでくださいね」
 こうしてトリーシャたちは控え室を出ていった。彼女たちの姿が完全になくなってから、彰は部屋のドアを閉めネイラスに言った。
「さてとネイラスさん、もう隠す必要もないだろう。あんた、『闇の者』だろう?」
 こう言われたネイラスは一瞬だけ沈黙をしたが、その直後にすぐさま返答をした。
「その通りです。やはりわかりましたか」
「あんたと目を合わせた時に感じたあの悪寒…そしておっさんの棄権…両方ともあんたの持つ『闇の力』のせいだったんだな」
「そうです。自分では抑えていたつもりですがやはり出てしまっていたようですね」
「そんなことはどうでもいいんだ。俺が知りたいのは、あんたが何の目的でこの大会に参加したかってことだ」
「目的…ですか。それは彰さん、あなたと闘うためです。あなたと闘い、その力がどれほどかを知るために私はここに来ました」
「何だと?」
「これまでのあなたの戦いを見て、『闇の力』なしの、つまり普通の人間としてのあなたの実力はわかりました。そしてさらに私は、
『闇の者』としてのあなたの力を知りたい。私と戦っていただきましょう。『闇の力』を使って!」
「ま、待ってくれ!この部屋に人はいないが周りには大勢いる。そんな所でその力を使うのはご法度だってことぐらい、あんただって
知ってるだろう!?」
「ええ、それくらいはわかっていますよ。ですから場所を変えましょう」
 そう言うとネイラスは自分の指をパチンと鳴らした。すると、彼と彰の周囲が黒い霧に包まれた。
「な、何だこれは!?」
「我々を闇の世界へいざなう物ですよ」
 そしてしばらく部屋中にただよった霧が消えた時、二人の姿もなくなっていた。

 闘技場の控え室から消えた彰とネイラスは、黒い空間にいた。
「ここは…そうか、いつだったかあんた以外の『闇の者』に、こんな場所に閉じ込められたことがあるな…」
「ここなら邪魔は入りません、さあ、あなたの力を見せてください!」
「あんたと戦えばここから出してくれるのかい?」
「ええ、約束しましょう」
「だったら早いとこやるとするか。このままじゃ俺たち二人とも決勝戦失格だ」
「まあ私の目的はあなたの力を見ることですから、ここで私と戦っていただければ失格になっても一向に構わないのですが…」
「俺の方も大会に出たのはあんたを…『闇の者』を見つけるためだったわけなんだけどな、せっかく決勝まで行ったのに失格になっち
まったらちょっともったいねえ。だからさっさとあんたを倒して、ここから出る。行くぜ、影…転…身…!」
 その呪文と同時に彰は自分の胸の前で何やら印を組む。それを合図に、彰の体が漆黒の光に包まれた。それが収まると、彼の姿は変
わっていた。それは、彰が心の中に飼っているもう一つの人格、シャドウの姿である。これが『闇の力』で変身した彰、その名も影狩
人である。
「なるほど。姿を変え、肉体的感覚的能力を高める…それがあなたの能力でしたか。では、私の力もお見せしましょう」
 そう言ってネイラスが目の前に両手を突き出し、手のひらを広げた。するとその先端にある物が見る見るうちに伸びていった。
「つ、爪が!?」
「そうです。自らの爪を伸ばし、自由自在に操る。それが私の能力です。では…行きますよ!」
 その言葉の直後、ネイラスの十本の爪が一斉に影狩人となった彰に向かっていった。しかし−。
「裂!」
 次の瞬間勝負はついていた。掛け声と共に彰が棍を一振りすると、彼に向かってきた全ての爪が折れた。どうやら、常人には一度し
か振っていないように見えて、実際には見えないほどのスピードで何度も棍を振っていたようである。
「なっ…!」
 自分の爪を折られ、動揺を隠せないネイラス。その彼に、彰が一瞬で間合いを詰め、そして棍でネイラスの胸を一突きした。
「ぐおおっ…」
 ネイラスは思わずうめき声と共に自分の胸を押さえて地面に膝をついた。そして次に彼が顔を上げると、その目の前に棍を突きつけ
ている彰がいた。
「どうだ、まだやるか?これ以上やるってんなら、容赦はしねえ。さっき爪を折ったが、先っぽだしそれほどのダメージにはなってな
いんだろう?だけど次は生爪はがすぜ。そもそも俺は殺しはしない主義だが、再起不能にまではするかもな」
 こう彰に言われたネイラスは−。
「…まいりましたよ。まさかあなたの力がここまでとは思いませんでした」
「負けを認めるんだな?それじゃもう変身解いていいか?この姿でいるの、精神的にも肉体的にも負担がかかるんだよ」
「ええ、どうぞ。元の彰さんに戻った瞬間に不意打ちを仕掛けるなどということはしませんから」
「よし、その言葉信じよう」
 そう言うと彰はまた印を組み呪文を唱え、元の姿に戻った。そしてネイラスに視線をやる。すると彼は言った。
「それでは、全てをお話しましょう。なぜ私が彰さんの力を見たかったのか…。彰さん、あなたは自分の中の『闇の力』が日に日に増
大していっていることに気づいていますね?」
「えっ?どうしてそれを?」
「やはりそうでしたか…。そして、その力により、あなたの周りに魔物が現れることが多くなってきている…違いますか?」
「そ、そこまで調べがついてるのか…」
「はい。実は、あなたは『闇の者』の中でも特殊な存在のようなのです。『闇の者』が『闇の力』を使うと、その周囲にいた人間やそ
の他の生き物の負の感情というものが勝手に育ってしまいます。しかし…」
「しかし?」
「あなたの場合、それを使わずとも持っているだけで使ったと同様の効果が起きてしまうのです。無論、使えばなおさらのこと。この
ままでは、あなたの周囲には魔物と負の感情に支配された者…加えて『闇の者』しかいなくなってしまいます」
「そんな…何か手はないのかよ!?」
 額に脂汗を浮かべながらたずねる彰に、ネイラスはこう答えた。
「…あります。それを教えるために、私はここに来たのです」
「本当か!?なら、教えてくれよ!」
「『闇の力』を持っているからそのような弊害が起きるのであれば、それを持たなければいい…それだけのことですよ」
「それだけって…具体的にはどうすればいいんだ?」
「このエンフィールドから遠く離れたとある国に、いわゆる『闇の者』の隠れ里という物があります。そしてそこに、あなたの力を消
滅させてくれる人物がいるのです。名を、闇王…」
「闇王?また偉そうな名前だな」
「偉そうではなく実際に偉いのです。ですが、その方に会うにはかなりの苦労が伴います。まず、ここからその隠れ里まで…普通に歩
けば半年はかかるでしょう」
「半年ぃ!?」
「まあ、『闇の者』としての力を使えばその半分ほどで済むでしょうが…。さらに、里について闇王に会ったからと言って、その場で
力を消してもらえるわけではありません。過酷な試練に耐えねばなりませんし、その試練自体、人によってどれだけかかるかが変わっ
てくるので、具体的な期間がわからないのです。一ヶ月か、半年か、それとも一年以上かかるか…」
「‥‥‥‥」
 彰は黙ってしまった。確かに、自分の持つ『闇の力』の影響が周囲に出ていることは彰自身わかっているし、それをどうにかしたい
と思っていた。そしてその解決策が向こうから飛び込んできたのだ。だが、そのためにはかなりの長い間このエンフィールドを離れな
ければならない…。何も言わずにそのことに想いをめぐらせている彰を見ながら、ネイラスはまたも指を鳴らした。すると先ほどと同
じように黒い霧が彼らの体を包み、気がつくと二人は元の控え室に戻ってきていた。そしてネイラスが彰に言う。
「今すぐに私と一緒に来てくれ、とは言いません。ですが、このままだとあなたやあなたの周囲がどうなってしまうかをよく考えてく
ださい。そうすれば、あなたがどう行動するべきかはおのずと導き出されるはずです。私はこのエンフィールドから街道沿いに歩いて
三日程度の所にある小さな村の教会にいますので、その気になりましたらお越しください。それでは」
 それだけ言うと、ネイラスは控え室のドアを開けて外に出ていこうとした。
「ちょっと待ってくれ。あんた本当に決勝戦に出ない気か?」
「ええ。先ほども言いましたように、私の目的は達成されましたから。それから、どうやら準優勝でもいくらかの賞金がもらえるよう
ですが、それらは私の代わりにあなたが受け取り、この街の教会にでも寄付してあげてください」
「だから、ちょっと待てってネイラスさん!」
 そう呼び止める彰の声を無視し、ネイラスは今度こそ控え室を出ていった。しかも明らかに闘技場とは逆の方に歩いていく。
「本当に行っちまいやがった…。でも、本人がああ言ってるんだしな。それより…」
 彰は、ネイラスが試合を棄権するということよりも重大なことについて考え始めた。しばらく考えた後、彼はつぶやく。
「…やっぱ、それしかねえのかな…」

 その後、大武闘会はどうなったのか。結局、試合開始の時間に闘技場に現れたのは彰だけで、彼は審判にネイラスが棄権したことを
伝えた。戦わずしてリカルドに勝利したネイラスの棄権に観客はどよめきの嵐を起こしたが、ともかく、こうして大会は彰の優勝で幕
を閉じ、彼は多額の優勝賞金を手に入れた。そして彰はネイラスの意向を審判に伝え、準優勝の賞金の行方は彼の望んだ通りになった
のである。

 その夜、街の大衆食堂さくら亭で彰の優勝祝賀パーティが行われた。彼の優勝を心から喜ぶ者、とにかく飲み食いができればそれで
いい者など、多くの人間が参加した。それは楽しい時間だったが、その中にあって、主役の彰の心からはネイラスの言葉が消えていな
かったので、表面上は楽しく振る舞っていても、その奥底には不安が潜んでいたのである。
 そしてしばらくして会はお開きになった。彰は周りの人間にしつこいくらい言われたために、トリーシャを家まで送っていくことに
なったが、その途中、辺りに人がいないことを確認してからトリーシャがこんなことを言った。
「…そういえば、『闇の者』はどうなったの?ボク、あのネイラスさんって人がそうじゃないかって思ったんだけど、違う?」
 こう言われた彰が一つため息をついてから答える。
「…やっぱ気がついてたか。そうだ、あの人だ。そしてケリもつけた。決勝戦の前にな。それで…」
 さらに彰は、ネイラスに話されたこと全てを包み隠さずトリーシャに話した。それを聞いた彼女の反応は−。
「そんな…それって本当なの!?」
 思わずトリーシャが大きな声を上げる。そしてその後落ち込んだ様子を見せた。やはりショックだったようだ。
「…それで、結局彰さんどうするの?」
「やっぱいつかは行くしかねえと思うんだけどな…今すぐに行く勇気が起きねえんだよ。おまえを初めとするこの街の人たちと離れる
のも…この街自体から離れるのも、今日まで想像すらできなかったことだし…」
「‥‥‥‥」
「まあ、少なくとも黙っていつの間にか行っちまうなんてことはしないから安心しろよ。それだけは約束するから」
「うん…」
 トリーシャにとっては、その彰の言葉が唯一の救いだったのかもしれない。その後二人はトリーシャの家まで何の会話もせずに歩い
た。そんな彰たちの頭上には月が出ていて、二人を照らしている。その月に照らされた彰の影は、彼ではなく、その中にいるシャドウ
のようにも見えた。そしてそれは、悩む彰を明らかにあざ笑っていた−。

<了>

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