弦エニシ&me   その36 その37

今回は私の作文です。

 正直に言って、私にとって、生前の弦エニシは、怖い存在でした。とっても、気を使っていました。
私の心の中では、本当に、弦先生は、怖い怖い存在でした。

もともと、私が、「師」選びの時から、ガチャガチャだったのです。
普通?は、町で、評判、そこそこ御客様が、ついている占い師さんに、「師」を、お願いすべきでした。
しかし、私が、選択してしまったのは、日本中の占いファンの的であり、
後に、タロットカード界の重鎮に昇り詰めてしまった「弦エニシ」でした。
ここからが、私の占い師人生の始まりでした。
16歳の時、初めて、弦先生と、出会い、今までの時間を、過ごしています。
最初から、恐れ多い方と、占い師人生を、スタートしてしまいました。

私は、いつも、いつも、弦先生の事を、怖いと思っていました。
弦先生と、お喋りする時は、ドキドキものでした。
どんな、反応が、返ってくるのかな・・・
何を、言われるのかな・・・
もうね、弦先生と、向き合う時は、大変でした。
例えば、私の結婚式の招待状を、お渡しした時・・・
「ごめんね。」って、あっさり、言われるのかな・・・っと、思ったり。
(結婚式に出席して下さいました。)

毎年、弦先生の誕生日には、お店のスタッフ全員で、「香水」を、プレゼントしていました。
私は、個人的に、プレゼントを用意して、こっそり、プレゼントしていました。
決して、高価な物では、ありません。
2002年の誕生日の時、コムサ デ モード の 赤い網状の小物入れを、プレゼントした事が、有りました。
差し上げた時、私、「どっかに、いっちゃうか、すぐに、忘れちゃうんだろうな」って、
諦め半分で、プレゼントしました。
ところが、大切に使って下さっていたのが、判明。
弦先生のマンションの整理をした時、その小物入れが、出て来たのです。
新しいタロットカードの収納袋として、使ってくれていました。
それを、発見した時、私は、「ごめんなさい。」っと、ギュッと、その赤い小物入れと、
新品のタロットカードを、抱きしめました。
右の写真が、その赤い網状の小物入れ実物です。


2011年8月5日、弦先生が、亡くなりました。
その知らせを、受けた時から、私の心が、変わりました。
もう、表面の「怖い」「気を使う」事が、ないんだなと・・・もう、無いんだなって・・・

そのとたんに、「弦エニシ」の事が、実は、好きだったのだという事を、
心の根底からの思いが、湧き出してきました。
これって、なんなの?自分に、問いました。

右の写真は、宇田川町にあった、最後の「原宿スター」の店内です。

私には、今、教えてくれる方が、いません。
教えてくれる方が、いない、質問出来る方が、いないというのは、
本当に、淋しくも悲しいものです。
今、私は、途方に暮れています。
どうしていいか、わからない時も、あります。
怖かったけど、弦先生に、相談すると、明るく、返して頂いた回答が、有りましたので・・・
でも、今は、それも、無いです。

本当に、淋しいです。弦先生、あの世で、お元気ですか?
(ミミちゃん、心配しないで・・・、こっちで、ゆっくりしているから。アハ♡)

実は、原宿スターの、スタッフだった、AZ君が、現在、新潟で、僧侶になりました。
去年の、7月に、彼から、私に、電話が、有りました。
AZ君が、伝えてくれました、弦先生の、メッセージを、私に。
それを、後日、公開しても、よろしいですか?

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