弦エニシ&me  その25

  ミミ月丘 突然 原宿スターを 辞職の巻

あれは、1993年の時、私は、25才。原宿スターを、突然、辞めてしまった事が有った。

正直、私の20代は、失恋の連打、彼氏無しの、毎日・毎月・毎年の、繰り返しでした。
約8年、それは、続きました。まともな、恋愛が、出来ない。好きな人が、現れない。とっても、精神的に、
辛かったです。

1993年のゴールデンウィークの時だったと、思います。
いつものように、スターに出勤して、昼休みの時に、表参道に、ぷらっと、散歩に行ったのです。
その時、目に入ってきた光景は、「カップル」ばっかり、でした。殆どが、手を繋いで歩いていました。
どうやって、知り合うのかな? そして、どんな、切っ掛けで、付き合い始めるのかな?って・・・
横断歩道の所で、立ち止まって、街の風景を、しんみり見ていました。

私には、恋愛の「レ」の字も無い。私に、付き合って下さいなんて、言ってくれる人も、いない。

横断歩道を、渡りながら、自然と、涙が、出て来た。
こんな、恋愛経験が、無い、不幸な私が、「恋の相談」を、占っては、いけない、ダメよ!
オイオイ、泣きながら、その昼休みは、原宿の街を、さまよい歩きました。
アイライナーなんて、とっくに、落ちてしまいました。

そして、午後の仕事を、終え、帰る頃には、弦先生が、出勤していました。
勢いでしたねー。出勤したての先生に、向かって、
いきなり、「今日で、辞めます。」って、言ってしまったんです。

弦先生は、何が何だか、分からない様子で、きょとんとしていました。
私は、感情を、剥き出しにしてしまい、自分が、恋愛していない事への不安、
それなのに、その相談を、されている自分、そのギャップに、耐えられないので、
辞めますっと、言ってしまいました。
幸いなのか、不幸なのか、次週の日曜日には、私への、予約は、入っていませんでした。

「ミミちゃん、大丈夫なの?」  その時、弦先生に、かけて頂いた、言葉でした。
すみません。お世話になりました。

この1993年は、とっても、原宿スターも、そうですし、弦エニシの、飛躍の年でした。
「弦エニシの占いカレンダー」という、CDを、発売しました。もちろん、辞めていなかったら、
私の声もそれに、収録されていたかもしれません。
そして、弦エニシが、TV業界で、ちょくちょく、出演して、益々、有名に、なっていった年でした。
しばらく、原宿スターとは、空白時間が、有りました。

辞めた後、私の生活は、荒れました。ミミ月丘として挫折、彼氏・恋愛無し、家業のプレッシャー等、
誰にも、相談出来ず、朝から、缶チューハイを、飲んでしまう、アルコール中毒になりました。2年間もね。
一日の、記憶が、全て、白色でした。ベッドで、寝ていれば、良い方でした。

そして、1995年、9月に、千葉県千倉海岸での、転落・骨折事故が有りました。
次の年の1996年、5月、「アガスティアの葉」という、個人に関する予言書を、
インドに必死の覚悟で、読みに行きました。アガスティアの葉へ 
私、やっぱり、占い師として、これから、生きていかなくては、ならないのねっと、
実感して、帰国しました。

そして、帰国して、すぐに、弦先生に、電話をしました。

「ミミちゃん、明日、原宿に、来れる?」
行きますよ。平日の方が、電車、昼間、空いているし・・・

次の日、午後2時、原宿スターへ、久しぶりに、訪ねてみた。
そうしたら、いきなり、「ミミちゃん、行こう!」 
弦先生と、2人で、近くだけど、高そうな、喫茶店に、入った。

2人、揃って、紅茶を、頼んだ。

私は、何も、言葉が、出なかった。じっと、紅茶が、来るまで、私のうつむく顔に、
視線を、
送っていた弦先生が、そこには、いらしたから。
ずっと、私の事、見つめていましたね。

先生、ごめんなさい。ごめんなさい。
私は、それしか、言えなかった。
アガスティアの葉の予言書を体験した事も、報告しました。
もちろん、先生は、その葉の事は、知っていました。

「ミミちゃん、来月から、復帰。もう、辞めない約束でね。」
はい、覚悟、決めました。ずっと、在籍致します。

この瞬間から、紅茶が、美味しく感じました。
弦先生、有難うございました。復帰を、認めて下さって。
それが、今の私が、いる基礎です。

写真は、原宿スターの看板です。弦先生、直筆のデザインですよ。


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